撤退(1)
「女学生だ」
セリアンスロープの呪術師……ケインが駆け寄る。アキラに抱えられたリシアを見て、耳をぴんと跳ね上げた。
「尋常ではない様子だね」
「あ……お、下ろして」
「ごめん」
途端に恥ずかしくなって、アキラの腕の中で悶える。同行者は身を屈めてリシアを下ろした。
「奥の方で騒いでるようだけど、何か出たのかい」
二人が出て来た通路を見据え、呪術師は静かに質問をする。
「先史遺物が、現れて」
鼓動が嫌に耳の奥で響く。渇いた口を開いて、仄暗い水路の奥から出た刺客の名を告げる。
「武器を持っています。もうすぐそこまで」
「さっきの奴らが応戦してるんだな、うん」
呪術師は耳をひくつかせる。
通路の喧騒が聞こえているのか。
「足は何本あったか覚えているかい?」
「四本……もっとだったかな」
「多脚か。なら動きは鈍いはずだ」
低く唸り、呪術師は眉間にしわを寄せる。先史遺物と遭遇した経験があるかのような口ぶりである。
しばらく考え込み、セリアンスロープはフェアリーに意見を求める。
「手助けした方が良いと思うか?」
「退くべきです」
フェアリーの大男……ライサンダーは即答した。
大男はアキラに近付き、外套の下から厳しい腕を伸ばす。太い指が、左頬の切り傷を指し示した。
「先史遺物に害されたのですか」
「はい」
「……角度が緩やかです。大きい個体ではないのでしょう。協力して解体したところで、分け前は少ないと思われます」
「なるほど。だいたいライサンダーくらいの大きさだったのかな、先史遺物は」
リシアは怪物の姿を思い出す。
確かに、彼くらいの全高だった。遭遇した時は巨大に見えたが、今になって考えてみるとそこまで大きいものでもなかった。だからと言って、恐怖が薄れるわけではないが。
「はい。砲台が天辺に付いてて、そこから水を射つんです」
「水を、射つ?」
訝しげな呪術師に、リシアは何と説明をすればいいか言いあぐねる。
「水の矢みたいな、物凄い速さの」
「それでこんな傷が出来るのか。それなら、あの死体の穴も納得だ」
なにやら不気味な事を呟きながら呪術師は頷く。
その様子を所在無さげに見守るアキラが、手のひらで軽く傷跡を拭った。
「使いますか?」
フェアリーの言葉に、アキラは頰を拭ったまま動きを止める。巨体をすっぽりと包む外套の下から、薬瓶が差し出される。
「汚れた手で傷を触ると膿んでしまいます。手巾などは」
「あ、あります」
慌てた様子でアキラはジャージの懐から手巾を引っ張り出し、手荒く頰を拭った。
「消毒液です。腫れにも少しは効くと思います」
「ありがとうございます」
アキラは瓶を受け取り、蓋を開ける。とろみの付いた液体を少し掬い、傷口にひたひたと付ける。
一瞬アキラの頰が攣った。かなりしみる薬なのだろう。
「……帰ってきた」
装飾品で飾り立てられた右腕を軽く振り、呪術師は道を開けるよう促す。数人の足音、呻き声に気付いてリシアは来た道を振り向いた。
死人は、いない。
しかし無傷な者もいなかった。
「バサルトが泣いて喜びそうだな」
冒険者の一団は、不謹慎な呪術師の言葉を咎める気力もないようだ。若いドレイクの青年を背負った、同じくらいの年頃の冒険者が呪術師を恨めしそうに一瞥して、洞口へ向かう通路に向かう。
大損だ。
誰かが悲壮な声音でそう呟いた。
「あいつの脚の一本でもむしり取ってやりたかったが」
「今の状態で深追いはするもんじゃない」
「ぶち抜かれなくて済んだだけ運がいい……あいつを見ろ」
泥汚れが目立つ冒険者が、退却してきた通路の奥を見つめた。
獣じみた叫び声が響き、学苑生徒が三人、暗闇から現われ出でた。
汚れたシャツ姿の第六班班長と、彼に背負われ髪を振り乱している青年、殿を務めるように彼らの背後についている女生徒。いずれも、リシアがよく見知った人物たちだった。
制服の上衣で包まれている男子生徒の尋常ではない様子を見て、リシアは一歩退く。
「すまない、退いてくれ」
涼やかだが平常ではない声で、第六班班長のシラーは屯する冒険者を掻き分け、長椅子に背負った仲間を横たえる。
「暴れるなフリーデル。余計傷が開くぞ」
拘束服のように巻きつけていた上衣を解き、どす黒く湿ったフリーデル自身の制服も手早く捲り上げる。
上衣の下から鮮紅色が垣間見え、思わずリシアは目をそらす。
あの先史遺物にやられたのだろう。
シラーが手当を始める。脇腹に消毒液を塗布すると、痛みで舌を噛まないように噛まされた手巾を食いちぎる勢いで、フリーデルが悶えた。
副班長がフリーデルの上体を起こし、手早く包帯を巻きつける。リシアには迅速な処置のように見えた。
「……連れて行かないといけないね」
汗を拭い、シラーは一息ついて呟いた。伏せられていた目が周囲をゆっくりと見渡し、リシアとアキラを見つける。
「君達は……他の班もいたんだね」
「お、役所で会ったな」
一筋垂れた髪を頬に貼り付け、疲労した様子の副班長がにかっと微笑んだ。リシアは改まって二人に会釈をする。
「酷い目にあったよ。まあ、フリーデルはもっと辛いだろうけど」
朗らかな笑みを浮かべ、シラーは長椅子に横たわるフリーデルを見下ろす。
「君らもすぐ、撤退した方がいい。またすぐ戻ってくるとも限らないしね、あいつが」
「逃げていったんですか?」
「まさか。僕らに興味を失ったか、何か他に迷宮の異変を感じたんだろう」
シラーは滑らかな頬を拭う。その頬が血で汚れた。




