遭遇 巨螻蛄
鮮烈な香りが弾け、アキラは摘み取った草から顔を反らす。
「うへっ」
「ね?すごい匂いでしょ。これの精油が今出回ってる中では一番強い鎮静剤なの」
「へえ」
ハッカの群生地で採取に勤しむ二人。あれから大きな野生動物に遭遇する事もなく、二人は裂け目の最奥に辿り着いた。行き止まりは少し天井が高くなり、細かな岩の割れ目から水が浸み出している。その水に何らかの栄養分が含まれているのか、行き止まりの空間は緑に萌えていた。
「これくらいでいいかな…そろそろ戻ろっか」
「うん」
今日の収穫はホラネズミを二匹にハッカを一束、ハッカと一緒に生えていたキノコを五本。ネズミ以外は特に珍しいものでもなく提出しても高得点を貰えるわけではないが、そもそもリシアは今後迷宮に潜れるのかも怪しかったので、今日の細やかな収穫で満足する事にした。
満足と言えば、アキラの方は十分すぎるほどに迷宮を満喫しているようだった。道中目敏く植物や小動物を見つけては、リシアに種類を聞く。初めは教科書の記憶を頼りに種類を同定していたリシアだったが、次第に面倒になったのか「ただのキノコ」、「ただの害虫」などと返すようになっていた。
「そういえば結局使わなかったね。その剣」
アキラはウィンドミルを指差す。アキラは目利きというわけではないが、リシアの携えている剣はかなり精巧な造りであるように見えた。剣自体は大振りだが護拳と鞘に施された細工は繊細で、取り付けられた紅い『炉』は美しく輝いている。
「そうだね。ま、ネズミや虫に使うには勿体無い剣だし」
リシアは澄ました顔をして家宝の柄に手を添えた。剣を構えるより速く、アキラの方が動いてくれたというのもあるが。
「今日は来て良かった。ありがとうリシア」
「私からも、ありがとう。頼りになった」
何度目かも知れないアキラの感謝の言葉。この応酬に少しウンザリしながらも、リシアも心から礼を言う。
途端、低い唸り声のような警報が鳴り響いた。
「…なんだろ」
「第三通路で警報なんて珍しい…アキラ、早く地上に行こ」
迷宮内で何らかの異常があったようだ。リシアは元の道を小走りで戻り、その後にアキラも付いてくる。
二人が入って来た裂け目からリシアは半身を出し、周囲を伺う。通路はやはり薄暗く、警報以外は何の物音も聞こえない。
「なんの警報?」
「さあ…落盤ではないと思うけど」
裂け目から抜け出る二人。警報が鳴り響く通路は何処か不気味で、リシアは生唾を飲み込んだ。
「早く行こう」
そう言ってリシアは裂け目につっかえているアキラを急かす。しかしその言葉は通路の奥から響く叫び声に掻き消された。
「なに」
暗闇から人影が現れた。涙と鼻水と血で汚れたその人物は、先ほどリシアを嘲笑った痩せぎすの男子生徒だった。何ごとか喚きながら男子生徒はリシアを突き飛ばし、地上口へ向かって足を縺れさせながら走っていった。
「痛っ…ちょっと何なのアイツ」
再び、叫び声が響く。明らかにヒトのものではない声に、反射的にリシアは身を竦ませた。
通路奥の薄暗闇で、飴色の巨体が蠢いている。感情の無い漆黒の複眼に棘だらけの後肢、鋤のような前肢。コオロギに良く似た、しかし地上のそれとは比べ物にならない程巨大な怪物は厳しい顎を動かし、何かを咀嚼していた。
ひっ、と小さくリシアは叫ぶ。何を食っているのだろうか。最悪の想像ばかりが頭をよぎる。
「逃げよう」
いち早く動き出したアキラがリシアの右腕を掴む。走ろうとして、恐怖で竦んだ足が縺れてリシアは躓いた。
腰のウィンドミルが地面に叩きつけられ、予想以上に大きな音が響く。かさっ、と全くコオロギその物の動きで巨蟲はリシア達の方を向いた。
蟲が跳躍する。瞬時に距離を詰められ、リシアは何も考えられずに頭を抱えて蹲った。その襟首を掴んで無理矢理リシアを立たせ、アキラは先ほど抜けた裂け目へと走る。
「入って!」
リシアを押し込み、覆いかぶさるようにして裂け目に潜り込む。再び蟲は跳躍し、派手に裂け目に激突した。
「!」
「うわっ」
頭部と前肢を裂け目に潜り込ませ、蟲はばたつく。翅と後肢が入り口でつっかえているようだ。
涙目のリシアを背後に庇い、アキラはクラブを構える。黒々とした複眼に狙いを定め、打ち下ろした。
ゾッとするような手ごたえを感じアキラは後ずさる。複眼の一部がへこみ、蟲は大顎を擦り合わせ歯軋りのような不快な音をたてた。
逆に怒らせてしまったかもしれない。一層激しく顎と前肢を動かす蟲を見つめ、アキラは固唾を飲む。眼前の化け物の体格と前肢を見る限り、裂け目を広げて中に入り込む事も不可能ではないだろう。その前に何とかして、蟲の息の根を止めなければならない。
弱点を見つけるべくアキラは素早く蟲の頭部と前肢を見渡す。そして、蟲の頭と胴体の繋ぎ目から飛び出した妙な突起に気がついた。
鉈によく似た形状の刃物だった。あの三人のうちの誰かの得物なのだろうか。蟲の頭の後ろに浅く食い込んだそれを、アキラは即座にクラブで打ち込んだ。
体液が飛び散る。金切り声のような叫びを発し蟲は一層激しくもがく。無茶苦茶に振り回される前肢を紙一重で避け、アキラは鉈の背に向かって再度クラブを振り下ろす。
異臭を放つ体液がアキラの頬を汚す。奇声を漏らしガチガチと噛み合う大顎が、次第にその動きを止める。
「…し、死んだ?」
上擦った声でリシアは聞く。力無く垂れた前肢をクラブで小突き、反応がない事を確かめてアキラは頷いた。
「かも、しれない」
蟲の後頭部に回り込む。食い込んだ鉈の柄を握り、右足を大顎に当てて踏ん張りつつ引き抜く。
「う…」
どろりと滴る緑色の体液を見て、リシアは口元を手で覆った。その体液が服にも顔にも飛び散っているアキラはと言えば、変わらない無表情で抜き取った鉈をしげしげと鑑賞していた。
「…これ、どうしよう。持っていった方がいいかな」
「ちょ、ちょっと!そんな事より、もっと…無事なことを喜んだら?」
緊張の糸が切れたのか、わなわなと震え涙を零すリシア。そんなリシアを見て、アキラは赤ジャージの懐を探りハンカチを取り出す。
「鼻水出てるよ」
「だから!なんでそんな平然としてるわけ!?やっぱりあなた頭おかしい」
喚くリシアにハンカチを手渡し、背中を摩る。リシアはハンカチに顔を押し当て嗚咽を漏らした。
「…どうやって出ようか」
しばらく無言でリシアを宥めた後、アキラは事切れた蟲の頭を押したり引いたりする。
「あっ」
「なに」
「とれた」
「いやああああ」
鉈を打ち込まれぐらついていた頭部が千切れ落ちる。どことなく恨めしそうな顔つきのそれを端に転がし、アキラは体液の滴る蟲の胴体を裂け目の外へ押し込む。
「…私も手伝う」
「え。その制服、一張羅なんじゃ」
「だ、誰もそんな事言ってないでしょ!」
瞼を赤く腫れ上がらせたリシアが加勢する。体液で手や衣服を汚し、眉を顰めつつも二人は少しずつ蟲の亡骸を押し進めていく。
なんとか二人が這い出ることが出来るほどの隙間を造り、通路に這い出た。
「なんか臭う」
すんすんと赤ジャージの匂いを嗅ぐアキラをよそに、リシアは短刀を取り出して蟲の前肢と胸部の繋ぎ目に突き立てる。
「何してるの」
「前脚ぐらい、持って帰ろうと思って」
「…ちょっと、そこいいかな」
先程の鉈を振りかぶり、繋ぎ目に向かって打ち下ろす。苦もなく切断された前肢を手に取り、アキラは目を輝かせる。リシアは前肢の綺麗な切断面を見て、少し目の前の少女に恐怖を覚えた。
「すごい手。こんなので引っ掻かれたら一たまりもない」
「怖いこと言わないでよ」
「これはなんていう虫?前肢は何かに利用するの?」
「ツチコロギスの利用方法なんて聞いたことないから…こんな野生動物と遭遇しましたよっていう報告の物的証拠にしかならないと思う」
「ふうん」
蟲の周りを彷徨き、しげしげと観察するアキラ。もう片方の前肢も持って行こうかとリシアは考え、アキラを真似て鉈を振り下ろしてみる。鉈は浅く食い込んだだけで、アキラのように一刀両断とはいかなかった。少しリシアは鼻白み、抜いた鉈をアキラに手渡して…通路に響く足音に気付いた。
「おー、確かにデカい」
「もう死んでないか?分け前はなさそうだなあ」
地上口方向から歩いてくる五人の人影。学苑生徒とは服装も雰囲気も違う彼ら…本職の冒険者を見て、リシアは体を竦ませた。
学苑生徒はともかく、本職の冒険者は無頼者が多い。学苑生徒にあまり良い顔をしない者も少なくはないため、出来ることなら接触は避けたかった。リシアが本職冒険者の少ない第三通路にやって来たのも、それが理由の一つである。
「おお、冒険者ごっこかいお嬢ちゃん達」
髭面の男が豪快に笑った。無意識にリシアの口が尖る。
「さっき逃げ帰ってきた坊主は一人でこいつを相手にしようとしてたのか?」
「いや。私達が見た時は三人連れだった」
「ほー…あ、もしかしてお嬢ちゃん達がお仲間かい?あの情けない坊主の」
女の子だけで頑張ったなあ、と労いの言葉をかけられ二人は面食らう。確かに、あの痩せた男子生徒は三人組で行動していた。残りの二人は迷宮に取り残されたのだろうか。
蟲がぽりぽりと何かを咀嚼していた光景が脳裏をよぎる。
「いや、私達はその男子生徒とは」
「さっき会った学苑班にはこんな子いなかったぞ」