地図
エラキスの南西に位置するローム湖は、都市の主要な水源の一つである。エラキスを縦断するレス河の源であるそこは常に水を湛えており、気候も相まって夏場の避暑地としてもエラキス民には馴染みが深い。第一通路からごく短時間で向かえる湖は現在、季節外れの休暇に訪れた旅人ではなく小迷宮の恩恵を求めて群がる冒険者達で熱く沸いていた。
既に粗方迷宮の構造が明らかになっているのだろうか、其処彼処で声を張る地図売りに辟易としながらリシアとアキラは小迷宮の入り口を探し、人の流れに身をまかせる。小迷宮へと続くと思われる道の左右にはスレート商会の天蓋が並び、幕の内側で多くの異国の言葉が交わされているのが聞いてとれる。ふわりと風に吹き上げられた幕の下からは、血で滲んだ包帯を足に巻いたドレイクが寝台に腰掛けている様子が一瞬伺えた。奥地では怪我人も出ているようだ。未踏の小迷宮探索の過酷さを垣間見、リシアは緊張する。
同時に、浮蓮亭にいた二人の実力の一端が見えた。ヒドラを土産に持ち帰ってくるような愉快な感性を持つ彼らだが、裏を返せば迷宮の中で怪我をした仲間への土産を見繕えるだけの余裕を持っているのだろう。
周りを見渡してみても、見知った顔は居ない。マイカや学苑の他の生徒達は来ていないのだろうか。先程の緊張を和らげるようなほんの少し安堵を覚えて、リシアは息をつく。
「そういえば、地図は買わなくていいの?」
地図売りの宣伝を華麗にかわして、アキラが問いかけた。
「地図は自分で描くものなの。そこら辺の冒険者が描いた地図なんて信用できないし……大手の探索専門の組合が発行した地図なら、まあ安心は出来るけど」
「探索専門?」
「瀝青出版なんかは国に委託されて測量をしてるし、そこの組合の地図なら問題は無いかな。ただ高いの、アレ」
探索、測量に特化した冒険者を有する瀝青出版の地図は、小迷宮が見つかったほぼその日に出版され、日々改訂版が刊行される。刊行の速さの割に地図は正確で情報も盛り込まれているのだが、学生には手が出せないほど高価なのだ。リシアのような貧乏学生は自分で地図を描くしかない。地図を描く事で単位を得られる課題もあるので、寧ろ推奨されているぐらいだ。
「こんな感じ」
まだあまり頁が埋まっていない野帳をアキラに見せる。簡単な通路の見取り図、植生、留意点。事細かく書き留めるのは得意なのだ。
「丁寧だね」
感心したようにアキラは言う。少し気が大きくなって、リシアは澄ました顔で野帳をしまう。
「ありがとう」
「こんな風に自分だけの地図を作るんだね」
どこか憧れに似た表情を浮かべて、アキラはため息をついた。
「なんか、いいな」
自分だけの地図。その言葉を聞いて、リシアの胸の内に何かが込み上げてくる。まだ数頁しか埋まっていない野帳だが、そこには今までの軌跡が記されている。その軌跡はけしてリシア一人だけで歩んできたものではないのだ。アキラが居て、その前にはマイカが居た。リシアだけが歩んできた道などどこにも無い。
「自分だけの地図、ね」
アキラには肯定のように聞こえたのだろうか。既に何歩か先に進む赤いジャージの背を、リシアは複雑な面持ちで見つめる。
その視界の隅に、見覚えのある後ろ姿が映り込んだ。
思わず足がすくむ。
二度に渡ってマイカと共にリシアに絡んできた上級生だった。確かフリーデルとかいう名の彼は、以前よりも険のある面持ちで人混みの中を進んでいく。途中、冒険者に半身をぶつけ、何やら口論を交わしながらも振り切るように歩幅を広げる。
目の前の喧騒に気付いたのかアキラは立ち止まり、振り向く。
「リシア」
「大丈夫……気にしないようにしよ」
そう言いながらも周囲を見渡す。マイカはおろか他の生徒の姿も見えない。どうやらフリーデル一人で行動しているようだった。その事にほんの少し安堵し、違和感を覚える。
例え迷宮科の生徒であっても、一人で迷宮に潜る事は出来ないはずだ。
リシアはよく承知しているその学則に反するような、他に連れもいないフリーデルの後ろ姿を見つめる。迷宮の中で待ち合わせでもしているのだろうか。成績優秀者が集う第六班なのだから、学則を破る生徒など居ないはず、だが……。
剣を携えた二年生は、冒険者達の人混みの中に消えて行った。その苛立ったような、思い詰めたような表情を見て、先程とは違う感情がリシアの胸中をざわめかせる。
「不安」だった。
「大丈夫?」
どこか不穏な様子のリシアの顔を、アキラは覗き込む。
「お腹すいた?」
「……」
言葉を返す気にもなれず、再び歩き始める。
「あ、あそこが入口?」
「そうだね。かなり広いんじゃないの、この小迷宮」
眼前にぽっかりと地下へと続く洞口が現れる。思いの外広く、温い空気が吹き上げる入口へリシア達を乗せて、人混みは流れ込んで行く。不安を抱えながらリシアとアキラは、まだ全容も明らかになっていない小迷宮へと足を踏み入れた。




