探索前に
浮蓮亭が面する裏路地で、赤いジャージの後ろ姿を見つける。名前を呼ぶと彼女は立ち止まり、いつも通りの無表情で振り向いた。
やはりアキラだった。リシアは右手を軽く振り、挨拶をする。進行方向を指差して、
「とりあえず、浮蓮亭に入ろう。お弁当のことも聞きたいでしょ」
そうリシアが言うとアキラはこくりと頷いた。連れ立って歩き、浮蓮亭の古びた扉を開く。
「いらっしゃい」
店主の掠れ声に出迎えられ、二人は入店する。食欲を刺激する香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる。
「なんの匂いだろ」
「二人とも、良いところに来た」
ちょうど良かったと言わんばかりに、店主は簾を少し引き上げ、隙間から平皿に盛られた黄金色の四角い揚げ物を差し出した。油と蜜で照りかがやくそれをリシアはしばし観察し、アキラは即座に手に取る。
「ちょっと試食してみてくれ」
「いただきます」
アキラは菓子を齧り、即座に空いた左手を受け皿のように口元に添える。細長く絞り出した小麦粉の衣を押し固めたような菓子はほろりと崩れ、掌に散らばった。
「少し食いにくいか?冷めたらもう少し固まるんだが」
「……美味しいです」
散らばる菓子に難儀しながらも、アキラは一つ目の菓子を完食した。続いてリシアも菓子をつまみ、片手を添えて一口齧る。表面は揚げ菓子らしくさっくりとしているが中は柔らかく、口の中で即座に崩れていく。油の濃厚な風味と糖蜜の甘味が口中に広がる。贅沢な味わいだが……沢山は食べられないだろう。だが疲れている時に一口食べれば、気力が湧いてきそうだった。
「漏斗の菓子に似てる」
「漏斗?水を注いだりするのに使うやつか」
「そうそう。それを使って油の中にたねを搾り出して作る揚げ菓子があるの」
「よく屋台で売ってます」
「ほお、東西で似たような菓子があるのか。不思議なものだ」
感心したようにそう言って、店主は杯を二つカウンターに出す。柑橘の風味が移った水を少し口に含むと、菓子の脂っ気が少し和らいだ。
「その菓子は試食用だから金は取らん。ライサンダーの御所望で作ったんだが、当の本人がとっとと迷宮に行ってしまってな」
「そのおかげで私達が試食出来たんだ」
「そうなるな」
「ちょっと、その子達ばかりずるくない?僕にもちょーだいよ」
隅の卓でハロが非難の声を上げる。それを聞いて店主は嘯くように、「別にあげないつもりではないぞ」と答えた。
「ほら、お前も食べて感想を聞かせてくれ」
「はいはい」
椅子から腰を浮かせかけたハロを見て、リシアは平皿を取り卓の上に置く。ハルピュイアは少し驚いたような顔をして、椅子に再び腰かけた。
「……急に優しくなっちゃって。変なの」
「だって怪我してるし、安静にした方がいいでしょ」
「別に皿を取るぐらい……まあいいや。ありがと」
一転、澄ました顔で形ばかりの感謝をハロは述べた。即座に菓子を頬張り、眉間に皺を寄せる。
「あっま」
「甘いものは苦手か」
「うーんそういうわけじゃないけど。油と飴の味しかしないから、飽きそうだなと思って」
「なるほど……干果でも散らしてみるか」
試行錯誤を始めたのか、簾の向こうから作業音が響く。そこでリシアは浮蓮亭に寄った要件を思い出した。
「あの、店主。私達これから迷宮に行くんだけど」
「おお、そうか。頑張れよ」
「何か迷宮の中でつまめる軽食とか、作ってもらえないかなって……」
言っているうちに何だか図々しい頼み事のように思えて、リシアの声は小さくなっていく。厨房の音が途絶え、
「弁当か、確かにそれもいいな。参考にさせてもらおう。ただ今は用意がないから、これでも持って行ってくれ」
あっさりと店主は了承し、紙の箱を二つ、簾の隙間からカウンターに出す。油紙を立体的に折り曲げて噛み合わせるように口を閉じた箱を手に取り、しげしげと眺める。
「中身はさっきの菓子だ。迷宮で食べる頃には固まって食べやすくなっているだろう」
「ごめんなさい店主、急なお願いで」
「構わんよ。もし弁当が欲しかったら、前日にでも声をかけてくれ」
「ありがとうございます」
ほぼ同時にそう言って、アキラとリシアは頭を下げた。
ふん、とハロが小さく鼻を鳴らす。
「その二人には優しいんだね」
「もちろん夜干舎にも作ってやるぞ。ケインとライサンダーが帰ってきたら伝えてやってくれ」
店主の言葉に返答も無く、ハロは頬杖をつく。
「女学生二人は、今日は迷宮に何をしに行くんだ」
突然店主は話題を変える。
「新しく見つかった小迷宮へ植生調査に」
「小迷宮って湖の?もしかしたらケイン達に会うかも」
「そういえば湖に行くって言ってたな」
どうやら夜干舎の二人も小迷宮に潜っているらしい。顔見知りがいるかもしれないことにリシアは内心安堵する。
一方でキノコ狩りの時に見かけた第六班の後ろ姿を思い出し、背筋を伸ばす。もしかしたらマイカもいるかもしれない。新発見の迷宮探索に医術専攻の生徒は是非とも同行してもらいたいものである。
少し気持ちが沈んできたが、今更逃げるわけにもいかない。カウンターの上の菓子を取り、鞄に詰める。
「それじゃあ、行ってくる」
「行ってきます」
「気をつけろよ」
「ライサンダー達に会ったら、もうヒドラは拾ってくるなって言っといて」
「何でだ、結構美味かっただろう」
「ゲテモノの域を出ないでしょ」
リシアの理解の及ばない会話を背に、二人は浮蓮亭を立ち去る。
「もし迷宮で二人に会ったら」
突如、アキラが呟いた。ちらりと連れ立って歩く少女の顔を見上げると、どこかはにかむような表情をしていた。
「このお菓子、少し分けてあげない?」
「そうだね。食べずに行っちゃったみたいだし」
「うん」
そう頷いて、アキラは大切そうに菓子を包んだ紙箱を鞄に詰める。その様子を見て、リシアはどこか言葉にし辛い違和感を感じた。
「アキラ」
「ん」
「何か良いことあったの?」
どこか困ったような、照れたような、複雑な面持ちでアキラは頷いた。これまでにリシアが一度も見たことのない、年頃の少女らしい表情だった。




