声なき朝
付人を伴って登校する生徒は少なくはない。だがその生徒が迷宮科だと、話はまた変わってくる。
学生や講師たちの視線を感じながら、リシアは執事と共に学苑へ至る道を歩む。いつも以上に小さくなっているであろうリシアの隣で、執事は素知らぬ顔をして静かに控えている。その姿を見て、リシアは再び背筋を伸ばす。老執事に見合うよう、姿勢ぐらいは正さなければ。
主の娘であるリシアと違って、執事は何処に出しても恥ずかしくない使用人だ。所作は勿論、腕も立つ。「もう少し若かったら迷宮に随伴していた」などと軽口を叩くぐらいには。ジオードの軍属であった彼の強さは、剣を教えてもらったリシア自身よく知っている。リシアの目に見えているのは、力量のほんの一端でしかないということも。
だが、彼を頼るわけにはいかない。執事は胸を病んでいるのだ。今のリシア以上に、彼は「迷宮」という場所に適していない。そしてこれからは、エラキスすら安全地帯ではなくなるのだろう。
執事が何かを示すように腕を伸ばす。応じるように、石畳の端へと寄る。背後から駆けてきた馬車が執事の隣を通り過ぎていった。
車体の会章を見て、どきりとする。
小さくなった馬車は学苑前で止まり、令嬢を降ろした。
目が合う。
「お嬢様」
執事が囁いた。
「教室までお送りしますか」
首を横に振る。流石にそこまでは頼めない。家を出る前の話では、正門までと決めていた。その正門も目の前だ。
改めて背筋を伸ばす。
執事は頷き、再び静かに歩き出した。
「ご機嫌よう」
正門前で、アルミナは既に普通科の生徒たちに取り巻かれていた。挨拶を交わす中、視線は時折リシアを捉える。
会釈をして、その隣を通り抜ける。
執事を見上げ、頷いた。
「お気をつけて」
ごく小さく執事は囁く。口端を上げ、笑顔を作った。
校舎へ続く道を歩く。このまま教室へ行って、いつも通り授業を受けて……アキラを探してみよう。
音のない息を吐く。
その背後から、間隔の狭い足音が迫り来た。
「リシア……スフェーン嬢」
涼やかな声が名を呼ぶ。振り向くと、歌姫候補が息を整えながら立っていた。置いてけぼりの取り巻きたちの視線を背に、令嬢はリシアを真っ直ぐに見つめる。
その瞳が即座に揺らぐ。まだ、心が定まっていないかのように。
言葉を待つ間も、視線は鋭く二人を貫く。少し悩んで、リシアは手帳を取り出した。
筆談なら容易いこともあるかもしれない。どちらにせよ、リシア自身にはその方法しかないのだから。
筆記を促す言葉を記し、差し出す。
青褪めた顔の令嬢と、再び目が合った。
「……あ……」
リシアの「現況」を目にして、言葉を失った令嬢は手を握り込む。まるで傷ついたかのような表情に、リシアは困惑する。
暫しの沈黙の後、一つ、令嬢は息を吐く。
「ごめんなさい」
そう言い残して、リシアの隣を足早に抜ける。呆気に取られ、令嬢が去った方向を振り向く。
あんなに小さな後ろ姿だったか。
そんなことを思いながら、彼女の姿が昇降口に消えていくのを見つめた。
漣のように囁きが広がる。正門前の生徒たちはリシアを一瞥し、自らの棟へと向かった。
声を失った人間を見るのは、恐ろしいことなのだろう。特に、歌姫候補であるアルミナにとっては。
かつてのリシアにとっても、今の状況は悪夢に違いない。だが、どんなにもがいても、確かに今は目が覚めているのだ。
喉を摩る。正門の外に、執事が佇む姿が見えた。
彼が何か仕草をする前に、リシアは微笑む。
もう一度踵を返して、迷宮科棟へと向かった。
道すがら、掲示板を臨む。今のリシアには手が出せない依頼ばかりだ。
けれども、いつぞやの花時計の整備くらいは出来るだろう。まったく迷宮科とは関係がないけれども。
出来ることを探さなくては。




