登校の連れ
鏡に映った姿を暫し眺める。シワひとつない制服に袖を通した姿は、以前と変わらない。変わったのは、リシアの喉だけだ。
いつもは気合を入れるように何事か声をかけていた。けれども今日は代わりに手を一度叩き打ち、リシアは自室を出る。
階下に漂う食欲を刺激する香りに惹かれるまま、食堂へ向かう。いつも通り、父と執事が朝の挨拶と共に出迎えてくれた。
ここ最近定番になった薬草茶を飲み、朝食を食べる。完璧な火加減の卵料理を掬い取った瞬間、スフェーン卿の視線に気づく。
「大丈夫かい?」
頷く。今日こそは投稿しなければならない。出席日数というものも、一応は存在しているのだ。「課外」ということにしてしまえばある程度誤魔化してしまえるとも聞いたが。
「ウルツ、用意したものを」
娘の決心が滲んだ素振りに笑顔を返しつつ、スフェーン卿は片手を掲げる。先程まで皿を配していた執事が、いつの間にか戸口から姿を現した。
笛を手にしている。
「ジオードの鋼索道で、警笛に使われる笛だよ」
父が説明し、執事が差し出した笛を受け取る。簡素な作りの、単純な音を甲高く鳴らす笛だ。
「防犯用に、念の為。学苑でそんなことが起こるとは思いたくないけど」
父の言葉に頷く。
アキラがそばにいる時を除けば、学苑も心安らぐ場所ではない。誰も彼もが敵のように思えた時期も、かつてはあったのだ。
またそこに行かなければならない。当時ほどの心境ではないけれども。
お守り代わりの笛を握りしめる。
「ウルツに送迎を頼もうかとも思ったけれど」
首を横に振る。執事には他でもないスフェーン卿の補佐という職務もあるのだ。リシアに時間を多く割くわけにはいかない。
紙に筆を走らせる。
感謝の意はあることを記し、二人に見せた。
「無理はしないでね。何かあったら、学苑の速達や馬も使って」
スフェーン卿は穏やかではないことを言う。裏を返せば、それほどまでにリシアを案じているのだろう。
そしてそれは執事も同様であるらしい。
「お嬢様。送迎の時間帯は私も手が空いております。問題ありません」
恭しく、静かに執事は告げる。何処となく、今日は何を言っても引かないような予感があった。
紙に「お願いしてもいい?」と記す。
「勿論ですとも」
執事は微笑む。
お言葉に甘えることにした。
朝食を済ませ、身支度を整える。剣を帯び鞄を携え、父に手を振る。
「いってらっしゃい」
微笑みながらスフェーン卿は告げる。玄関では既に執事が、外出用の外套を身につけ佇んでいた。片手には今日の昼食を収めた籠を持っている。
静かに執事は扉を開く。
ここを出るのも、久しぶりのことのように思える。
エラキスを見下ろしながら、坂を下る。静かに隣を歩く執事を気に掛けつつ、駅の辺りを注視した。
朝靄の代わりに、微かな煙が漂っている。ジオードではあの煙が原因で、胸を病む者が多いらしい。執事もかつて、その病が元で一線を退いたとも聞いた。
執事の顔を見上げる。何処となく懐かしげな目が、駅を見つめていた。
執事にとって、あの煙は自身を蝕んだ毒でもあり、故郷を思い出させるものでもあるのだろう。
「ここも、ジオードのように一層賑やかになるかもしれませんね」
ぽつりと執事は呟いた。今でも十分喧騒に塗れた街だが、更に賑やかになるのだと言う。それが「発展」であれば、リシアにとっても望ましい。
だが、ただただ汚穢で澱むだけなら。
そんな不安を、静かに飲み込み沈める。
この危惧も、今のリシアにはどうしようもできないことだ。何か手が出せるとしたら、それは「貴石」の家ぐらいのものだろう。
「私めが、お嬢様の補佐として迷宮に潜れたら良かったのですが」
再び、ぽつりと執事は溢す。珍しく冗談めいた口調に目を見開く。そんな令嬢の姿を見て、執事はこれまた珍しく微笑んだ。
「学生に戻るには、歳をとりすぎましたな」
まだまだ元気そうだけど。
そんな言葉を伝える代わりに、口角を上げた。




