歌えずとも
茶を飲み干し、手元の紙に文字を記す。ひとまず部屋に戻るという意思をスフェーン卿に示した。一つ頷き、スフェーン卿は告げる。
「ゆっくり休んで。焦らなくてもいいんだよ」
その言葉が、再び心の何処かに刺さる。スフェーン卿は殊更困ったような表情を見せた。
「昔の知り合いに手紙も出したんだ。きっと道は見つかる」
先程スペサルティン卿と話していた「碩学院の頃の伝手」なのだろう。その伝手に不安はない。ただ、何も出来ない自分が嫌なだけだ。
発することの出来ない言葉の代わりに微笑みを見せ、席を立つ。
応接間を出たところで、執事が背後から声をかけた。
「お嬢様」
いつも通りの気配の無い声掛けを聞いて振り向く。執事は一礼のち、手紙を差し出した。
古紙混じりの便箋を見て、即座に送り主を察する。
「アキラ様からです。本日早朝に……スペサルティン卿が訪れる前に、こちらを届けにきてくれました」
目を丸くする。おそらく、リシアが眠れないままに庭で過ごしていた時間帯だ。その後の来客を鑑みるに、執事は渡す頃合いを見計らっていたのだろう。
手紙を受け取る。封蝋の代わりに糊で閉じた境を撫でる。
諸々の言葉の代わりに頷く。執事もまた頷き返した。
手紙と共に自室へ戻る。寝台に腰掛け、封を開け、目を通す。
アキラが元々筆まめな方かはわからない。ただ、綴られた文字は何度も思考を重ねたような、ともすれば繋がりのないようにも思える文章を記していた。
ただ一句、この言葉だけは筆を持つ前から考えていたのであろうと思わせるものがあった。
待っている。
何度も、何度も、その箇所を読み返す。
不思議なことに、リシアの胸中に湧き出た思いは焦燥ではなく、安堵だった。心のどこかで、アキラは使い物にならない自身を捨てて何処かへ去っていくのだと思っていたのだ。
でも、そうではない。
彼女は待ってくれている。
寝台の縁から腰を上げる。執事が掃除をしてくれているお陰で埃一つ被っていないが、リシア自身は長いこと触れていない鍵盤琴の蓋を開ける。
白鍵を押す。音が一つ響く。その音に合わせて、空気を吸う。腹を潰す。ただ空気だけが通る。胸を、喉を、震わせようとする。
昔のように完璧な音程で歌えなくてもいい。ただ声だけを出せたら、それでいいのに。
浅く息を吐く。視界が霞むことも厭わず、ただ、声を出そうとした。
目を伏せる。喉の違和感を捉え、指先でなぞる。何か玉のようなものが詰まってしまったかのようだ。
喉に触れる手に力が籠っていたことに気付く。同時に、息が止まっていたことにも。
咽せる。
「お嬢様」
扉の向こうで執事が声をかける。返事代わりの鈴を鳴らすこともできないままでいると、執事が扉を開けて入ってきた。
私の喉を見て、顔色を変える。
「何故、このようなことを」
誤解だ、と言おうとしても告げる方法がない。必要以上に狼狽えもしないが明らかに動揺している執事は、リシアの体を支え、鍵盤琴の椅子に座らせる。
「落ち着いてください」
そう告げられて初めて、心臓が跳ねていることに気付く。いつから上気しているのだろう。手紙を読んでいた時はまだ、冷静だったはずなのに。
音を聞けば、以前のように練習をすれば、体が声を出すのを思い出すのだと思ったのだ。
「少し、横になってはいかがでしょうか」
まだ昼にもならないというのに、執事はそんな提案をする。ただ、そう言った理由はわかる。
結局のところ、今のリシアにできることはないのだ。ただ焦りで心も体も消耗していくだけ。
それでも、足掻かなければならないのに。待っている友人を迎えに行かなければならないのに。
指跡のついた喉が動く。声も出せないまま、リシアは項垂れた。