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今はいない誰か

 清涼感のある香草茶を飲む。心を落ち着ける作用があると父が告げていた薬草の名を、無意味に筆談用の紙に書き残す。ホラハッカ、ネズミノヒゲ、ミカヤツリ。いずれも庭に植え込まれている。洞穴内でしか育たないとされていたホラハッカも、スフェーン卿の手にかかれば植栽の一つになる。栽培に成功したという報告で論文を書けるのだと、執事が以前言っていた。


 そんなスフェーン卿は今日も、日課の庭いじりもそこそこに「話し合い」に出ていった。自身の伝手を辿って、腕の良い医者を探しているのだろう。心因性の病というものが存在していることが判明したのはごく最近だ。当然、専門の医師は数少ない。それでも諦めないスフェーン卿は、碩学院にも手紙を認めたそうだ。父の愛を、今のリシアは素直に嬉しく思う。同時に焦燥も覚えた。


 今の自分には何も出来ない。元はと言えば父の、家の負担にならないようにと始めたことなのに。


 その事実が、更に息を詰まらせる。


 この頃、眠りが浅い。今日も日が昇る前に目が冴えて起きてしまった。薄い青空を眺めながら、ただ椅子にかける。このまま石にでもなってしまいそうだった。


 遠い異国から輸入した種をスフェーン卿が育てたトケイソウなる植物の蕾が、風に揺れる。この花は正午に開花する。蕾の移り変わりを眺めることで、一日を無為に過ごしたことを思い知るのだ。トケイソウだけではない。池のスイレンもナデシコも、リシアを急かすように時間を示す。


 音のないため息をつく。


 空の茶杯を眺め、席を立つ。いつもなら執事が茶のおかわりを確認に来る頃合いだが、他の仕事に手取られているのか気配がない。茶杯を手に屋敷へ戻る。


 応接間に面した硝子窓の前まで歩き、立ち止まる。


 会話が聞こえる。


 今、屋敷にはリシアと執事しかいない。つまり客人だ。女公爵や元友人の顔が脳裏をよぎり、体をこわばらせる。


 耳を澄ませる。


 女公爵の声だ。


 硝子窓の向こうの扉が薄く開く。咄嗟に窓から離れ、身を隠した。


 父と執事の応対の声が響く。執事はともかく、父の声にも冷淡なものが宿っている。こんなスフェーン卿の声は、初めてだ。


「医師を紹介します」

「碩学院の頃の伝手があります。貴女の手を煩わせるまでもない」

「では、その際の」

「スペサルティン卿」


 一際冷たく、鋭く、声が響いた。


「……全て、リシアのためを思ってやったことなのでしょう。今もそうだ。それは、理解しています」


 暫しの間があった。言葉を選ぶ間だ。


「みんな、そう思っていたのでしょう。貴女も、マイカも、私も。その結果が今の状況です。私達は、あの子を苦しめてばかりだ」


 声の代わりに、服の裾を握り込む。そうでもしないと、足元から力が抜けてしまいそうだった。


 そう思っていたのか。


 怒りとも悲しみともつかない感情が湧き上がる。目元が熱くなった。


「貴女の助けを借りるべきなのか、私には判断がつかない。少なくとも、医師に関しては私の方が伝手はあるでしょう」


「旦那様」


 執事が小さく言葉を遮る。当然だ。相手は貴石の一人、女公爵なのだから。しかし当の女公爵は先程から黙したままだ。


 長い長い沈黙が続く。


「……私は」


 沈黙の果てに口を開いたのは、女公爵だった。普段の姿からは想像もつかない、掠れて弱気な声が響く。


「恥じているのです。貴方とあの子を置いて出ていった妹のことを。本来は妹がすべきことを、せめて私が、埋め合わせを」

「彼女を蔑むのはやめてください」


 再びスフェーン卿は言葉を遮る。その声音に先程までの冷淡さとは異なる、明確な怒気が含まれていることにリシアは驚いた。


「彼女はリシアの母です。確かに非難されるような行いをした。それでも、リシアの耳に入りかねない場所で彼女を貶めることを、容認することはできない」


 スフェーン卿は息を整える。


「……申し訳ございません。私のようなものがこんな、差し出ましいことを」


 いつものスフェーン卿の声に戻る。ただそれだけなのに、リシアは酷く安堵した。


 あそこまで声を荒げる父は初めてだ。


 再び沈黙がよぎる。


 永遠にも思える時間の後、聞き取ることもできないほど小さな会話があった。


 こ気味良い靴音と、遠くで扉が開く音がする。女公爵は去ったのだとリシアは直感した。

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