限度(2)
視線を感じる。
慣れない状況に身を置き、ゾーイは焦る。別に聖女に対して声を荒げるような人間だと思われるのは構わない。実際そうなのだから。だがそれを行動に移すとは、移してしまうとは、自分自身のことながら思いもしなかった。
空の皿を取り、席を立つ。
これ以上マイカに関わると、行動を律することが出来ない。辞めていった班員と同じ、愚かな振る舞いに走ってしまう。他責思考を笑いながらも、目の前の聖女が「そういう人間」である事を否定は出来なかった。
聖女なものか。ただの、毒だ。
背を向ける。
「私は、間違っているのでしょうか」
鈴を転がすような声が響く。文字通り、生き物の声に有る生気というものがごっそり抜け落ちた音だった。
振り向く。
「誰も『正しい答え』を教えてくれない。ただ批判するばかり」
悲しげな表情が張り付いている。背筋を冷たいものが伝った。
今彼女は、聖女ではない姿を見せようとしている。それでもなお、他者の判断を鈍らせる毒が滲む。
本当に、彼女にはわからないのだろう。「誰かのため」の行動が「誰のため」でも無いことが。
「『正しい答え』を教える義理なんて誰にもない。君が思っているより、他人は君を想っていない」
ゾーイは告げる。
同級生も、第六班の班員も、シラーも、ゾーイも、誰一人としてマイカを真に案じてはいない。リシアに執着する理由すら知ろうと思わないからだ。
最初からこの聖女に味方はいない。
ただ一人、軌道修正を望む人間はいるだろうが。
今度こそ皿を返すために動く。聖女は身動き一つ取らず、ゾーイの背中を見つめていた。その視線に何が宿っているのか、確かめようも無い。縁が切れるのならありがたいとだけ考え、作業員に皿を渡した。
食堂を出て図書館に向かう。シラーを探すためではない。こんなことを報告する義務などないし、言ったら言ったで後が怖い。ただ、静かな場所で気を落ち着けたいだけだ。
書架から本を見繕い、書見台に置く。
入り口の扉が軋んだ音を立てて開く。入ってきた人間が誰か気になって、振り向いた。
思い浮かべていた顔は第六班の班長だった。彼が何もない昼休みに此処にこもっていることは知っている。
しかし、振り向いた先に立っていたのは、先程も目にした聖女の姿だった。
少しだけ顔を上気させた聖女は、ゾーイを瞳に映す。その瞳に満ちた輝きがまるで刃物か何かを照らしたようで、ゾーイはすくむ。
聖女は歩みよる。
「ゾーイ先輩」
細やかな声が、書架に吸われた。
「あそこまで言うのなら、知っているのですね」
再び目が合う。何の悪意も見受けられない瞳。あれだけの事をしておきながら、マイカは罪の意識というものに苛まれていないのだろうか。あるいは、それを感じる神経を生まれ持っていないのかもしれない。だから此処まで、聖女という言葉が似合う人間になってしまったのだ。
「教えてくれませんか」
聖女は告げる。断られる可能性など一切考慮していないのだろう。弱気な言葉とは裏腹に、マイカの表情は確信に満ちていた。
「教える義理はない」
返す。再び、本に視線を落とす。
想定通りの沈黙が漂う。唖然としているのだろう。
「……班長の指示ですか」
その言葉を聞いて、少しだけ聖女のことを見直す。自身の置かれている状況を察することはできるようだ。
「いいや。自分の判断だ」
半分本音を告げる。
正直なところ、こうなったところで答えや忠告を告げてもどうにもならないだろう。
ただ一人だけ、彼女の問いに答えを出し、親身に今後のことを考えてくれそうな人間はいる。
「アンナベルグ講師なら、教えてくれるだろう」
殆ど善意で告げる。
途端、マイカは雰囲気を変えた。表情が無くなり、瞳が曇る。
「何故、講師に」
再び無機質ささえ覚える声が響く。
「アンナベルグ講師は、誰よりも迷宮科生徒のことを考えている。それは確かだ。だから、マイカの問いにも納得のいく答えを出してくれるはずだ」
「いいえ」
爆ぜるように、溢れるように、マイカは上擦った声を出す。
「あの人、ごく普通の感性を持っているふりをしているんです。ほんとは常識も人間性も全部、迷宮に置いてきたような人なのに。私達に接している時も、講師とはこういうものなのだろうって仮面を被っているんです。良い講師なんて理解も出来ていないはずです」
なのに、と息を吸う。
「あの人、リシアには本当に優しいんです。それがとても、気味が悪い」
言葉に滲む感情が、ゾーイの体を這う。聖女の口から出た言葉とは思えない。
朝、この図書館で目にした光景を思い返す。あの時は聖女の後ろ姿しか見えなかった。だがあの時の聖女も、こんな目をしていたのだろう。
確かな嫌悪が、現れる。
「……でも、今のでわかりました」
マイカは項垂れる。
「あの人に答えを求めなければならないほど、私はおかしなことをしているのですね」
その言葉を聞いてもなお、ゾーイは目の前の聖女を信じることが出来なかった。
本当に理解しているのだろうか。
本当に反省しているのだろうか。
その問いを、聖女のように口に出せないままゾーイは黙し続けた。




