書架の謗言
登校の雑踏も、図書館までは届かない。
痛いほど静かな空間で、マイカは刺すような視線を講師に送る。
この日のこの時間に、図書館に来ることは知っていた。シラーとの会話などどうでも良い。先程のやり取りは全て忘れて、講師に尋ねる。
「リシアの話、お聞きしましたか」
医学の棚から本を取り、講師はマイカを一瞥する。灰色の瞳は何の感慨も無さそうに、再び本の背表紙に向けられた。
「公爵閣下とアルミナ様が、リシアを迷宮科から引き離そうとしていたことはご存知ですか」
沈黙。今度は視線すら向けない。
「公爵閣下が『下手を打った』と、お思いですか」
流石にその言葉は聞き流せなかったようだ。本を小脇に、講師はマイカに体を向ける。
「あまり、そのようなことを口にするべきではない」
灰色の隻眼が細まる。
聖女は唇を引き結ぶ。
以前、図書館に行く直前に講師と出会い、一方的に責め立てた時のことを思い出す。講師はマイカがスペサルティン卿と「共謀」していたことを知っていた。
そのスペサルティン卿がこのような行動に出たことも知っているはずだ。ある意味蚊帳の外であったマイカよりも、ずっと。
だというのに、講師は少しも動かなかった。結局この講師も他の大人と同じなのだと、マイカは軽蔑の目を向ける。滅多に他者へとは向けない視線だ。
「何とも、思わないのですか」
マイカの言葉を聞いて、訝しげに講師は息をつく。
「今の状況は、不本意なものなのか」
問いに問いで返される。だがその問いはあまりにも鋭利で、マイカを動揺させた。
「こうなるとは、思いませんでした。スペサルティン卿の説得なら、リシアも素直に聞いてくれると思ったのに」
結局、身内と言えどその程度だったのだ。マイカ自身でも驚くほどに、毒の滲んだ言葉が心の内で氾濫する。
私ならもっと上手く出来た。
マイカがそう知る由もないが……浅はかにも、そう考える。
「全部、裏目に出てしまうなんて」
俯き、肩を振るわせる。
そんなマイカを冷たく見下ろしながら、講師は告げた。
「想定通りだったのでは」
緩んだ口元を引き結ぶ。
「君にとっては、一歩前進という程度のことなのだろう」
「いいえ」
顔を上げる。朝露のような涙を浮かべ、聖女は告げる。
「声を失っては、意味が無い」
リシアは歌姫でないといけないのに。
そう訴える姿を映した灰色の瞳に、別の色が宿る。
「リシア本人でもない君が何故、過去に囚われているのかは分かりかねるが」
杖の音と共に一歩、講師は近付く。
「今回の件で彼女は冒険者と歌姫、双方の夢から遠のいた。下手を打ったのは君だ」
講師の明確な否定の言葉に、マイカの身がすくむ。
「先程の問いだが、これから彼女がどうするか、その助力が出来ないかを考えている。迷宮科を辞めるのなら、進路を考えなければならない。このまま続けるのなら、声が無いなりにどうやっていけば良いのかを助言しなければならない」
講師は言葉を切る。
「その上で、君の行いは毒でしかないと、告げておく」
その言葉が許せなくて、マイカは叫ぶ。
「私は、正しいことをしています。全部全部、リシアのためにやっていることです。リシアがあるべき姿に戻るために」
「君はリシア・スフェーンのことなど、欠片も考えていない。君の行いは全て、君自身の利益のためだ。彼女を自分を飾り立てる道具のように扱うのはやめなさい」
聖女の叫びも、元冒険者の咎立ても、全て書架の中に消えていく。
唯一、始業を告げる鐘の音だけが現実との境目を暴くように鳴り響いた。
「教室に戻りなさい」
一言、講師は告げる。
涙の名残も消えた目が、講師を見据える。無言のまま、聖女は書架の間を去った。
それでもなお、視線が静謐な空間に残る。
「君もだ」
書籍を取りながら「相手」を一瞥もせず講師は言う。
「第六班の班長の指示ではないのだろう。だが、班員を統率出来ないようでは、この先は難しい」
書籍の頁を捲る。
「今の状態では、第六班を長期遠征に送り出すことは出来ない。班長にそう伝えるように」
数列跨いだ書架の裏で、人影が立ち去る。
視線と物音が無くなった後、講師は書架の合間から机の並ぶ広間へと出た。机に書籍を置き、背後の司書席へと顔を向ける。
司書の怒気の籠った目を見て、一つ会釈を返した。




