休んだ日の夜
一歩もスフェーン邸から出ないまま、一日が終わった。執事が皿を片付けるのを横目に、手元の紙に筆を走らせる。
お父様は、と書く前に執事は恭しく頭を下げた。
「お父様は、会合に出ております。お仕事の関係とお聞きしました」
嘘、と記す。困ったように、執事は目を細めた。
一歩も家から出なかったが、それでも、今日は激動の一日だった。見舞いと称してスペサルティン家とエメリー家、両家から使いが訪れたのだ。対応自体は父と執事がやってくれたのだが、それでも、気は休まらなかった。
何を話したのだろう。尋ねても両者とも答えてはくれず、挙句父は「会合」に出かけてしまった。物々しい雰囲気の父を見るのは、久しぶりのことだ。
アキラの来訪にも驚いた。もっとも、想像出来なかったわけではない。思ったよりも早かっただけだ。
アキラには心配をかけさせてしまった。酷く、驚いたはずだ。ともすれば不安だろう。今のリシアと同じように。
身動きも出来ずに紙を見下ろすリシアの前に、食後の茶が供される。華やかな香りは、アキラが見舞いの品として持ってきた茶葉と同じだ。
「喉にも良いと、記されていました」
杯の傍に、執事は茶房の品書を置く。使用されている薬草は、確かに父が風邪気味の時に摘んでくれる植物と同じ物だった。
「アキラ様は、お嬢様の声のことをご存じだったのでしょうか」
首を横に振る。そんなことを知る機会は無かったはずだ。情報通のセレスでも、リシアと女公爵の間の出来事は知るはずはあるまい。
一方で、耳にしていそうな少女の顔が脳裏をよぎる。元友人は、セレスとはまた異なる情報の道を知っている。第六班のゾーイ先輩辺りが怪しい。
何より、彼女は女公爵の周辺を彷徨いていたのだ。
お茶が冷める前に口にする。菫青茶房の薬草茶を飲むのは久しぶりだ。父が淹れてくれる茶よりは流石に飲みやすい。
一口飲み干し、声を出そうと試みる。ただ、空気が喉笛を通った。腹に力が篭らない。体が声の出し方を忘れてしまったようだ。
変な感じ、と頭の中の妙に冷静な部分が呆れたように呟く。その呟きすら声にはならなかった。
「無理は、なさらず」
執事が傍で囁く。頷き、残りの茶を飲み干した。暖まった体は、茶のせいだけではない。目を擦り、なんとか執事に微笑みかける。
美味しい。
紙にそう記して、見せた。
「アキラ様に、お礼のお手紙を認めては」
執事の言葉に目を丸くする。少し迷っている間に執事はどこからか便箋を持ってきた。質のいい紙を撫でつつ、筆談用の紙に筆を走らせる。
どうやって渡そう。
その文面を見て、執事は困ったように微笑む。
「私がお届けしましょう」
家、わかるの。
「アキラ様の伯母上……シノブ・カルセドニー教授の住所は存じております」
なるほど、と頷く。執事の心遣いに感謝しつつ、アキラへのお礼の手紙を認める。
感謝の後に、謝罪の言葉を付け加える。
何故謝罪するのか、を記そうとして手が止まる。
迷宮に行けなくなってごめん。
一人にしてごめん。
私がきっかけだったのに。
目を離したら、何処かに消えてしまいそうだと、思ったのに。
纏まりのない文章に、更に一文付け足す。
私がいない間は、迷宮に行かないで。
これで良い、と手紙を折る。いつの間にか執事が用意してくれた封蝋で止め、熱が冷めるのを待つ。
「お嬢様」
執事が肌触りの良い布を差し出す。首を傾げた瞬間、熱いほどの雫が頬を伝う。
鼻で笑う。その音すらも出ない。何が悲しいのかもよくわからないのに、何故涙を流すのだろう。
ひとまず雫を拭う。声の代わりに出ているのかもしれないと思うほど、とめどもなく、溢れてきた。
「お嬢様」
再び、執事はリシアをいつもの呼称で呼ぶ。
「アキラ様は、これがきっかけでお嬢様のそばを離れたりはしないと思います」
その言葉を信じ切ることが出来なかった。
リシアとアキラを繋いでいるものは「迷宮」だ。リシアが迷宮を離れてしまえば、このか細い縁は切れる。
それに執事は暗に、こうも言っている。
冒険者の望みは、既に絶たれていると。
ただの思い込みかもしれない。被害妄想かもしれない。それでも、もっと気楽に考えられる余裕は、今のリシアには無かった。