失錯(2)
家業の事務所は迷宮近くに所在する。見慣れた馬車が停まっているのを横目に、事務所には立ち寄らず住まいに向かった。
「ここまでで結構です。ありがとう」
衛兵長に告げる。暫し黙したまま此方を見下ろした後、衛兵長は一礼を返した。
「それでは」
そのまま、麦星通りの役所へと歩いていく。その背中が雑踏に埋もれた頃に、やっと、息をついた。
震える。
こんな姿は、誰の前でも見せたくはない。衛兵長にも、講師にも、友人にも、家族にも。
自室に戻り、これから成すべきことを再度確認する。まず、スペサルティン卿に会うこと。それからリシアに会うこと。見舞いに行くこと。許されること。
手紙を認める。これを使用人に渡して、まずは訪問の確認を取る。手紙のやり取りで済むのならそれでいい。女公爵が全てを書き記すかはわからないが。
本当は、今すぐ女公爵に直接話を聞きたい。何があったのかを聞いて、それから、どうすれば良いのかを聞きたい。
リシアは治るのだろうか。
違う、とどこか冷静な部分が声をあげる。
どうすれば良かったのか、だろう。アルミナが手出しをする必要も、権利も、無かった。アルミナがやろうとしていたことは間違いだった。
違う、と浅ましくも自己肯定に走る。
リシアに止めを刺したのは、女公爵だ。アルミナではない。女公爵が、誰に諭されたのかは知らないが、先走ったからこうなってしまったのだ。
紙にただ、墨が滲む。捨て去り、再度筆を走らせる。なんとか手紙を書き終え、使用人に持たせる。
「スペサルティン公爵邸まで」
「はい」
「それから、見舞いの品を見立てて」
指示を出した使用人が去ったのを見送り、机に着く。女公爵が即座に返答をくれるかは、正直なところわからない。多忙なはずなのだ。リシアのために時間は割いたが、それは彼女が、女公爵にとっても大切な存在だったからだ。時間を割いても構わない、公爵としての権限を使って迷宮科を廃することも辞さない、それほどまでに思う存在。
大切なのに、傷つけたのか。
心の底で嘲笑する。
でもそれは、アルミナだって同じことだ。
刻々と、淡々と、時間だけが過ぎ去る。
「お嬢様」
静かに扉が開く。先程用を頼んだ使用人が、恐る恐る顔を覗かせた。席を立ち、扉まで向かう。
「どうでしたか」
「こちらをいただきました」
渡したものよりも幾らか紙質が上の便箋を差し出される。封蝋も施していない。おそらく向こうも、急いで認めたのだろう。
目を通す。
こちらに任せて欲しい。
ごく簡潔に言えば、それだけの内容が記されていた。
手が震える。
何もするなと、言われていると思った。
「……少し、手紙を認めます。食事は結構」
そう告げると、使用人は不安げな表情を浮かべる。しかしすぐに頭を下げ、立ち去った。
再び部屋に閉じ籠る。机の上の紙を見つめ、考える。
確かに、出来ることなど何もないのだろう。全部全部、無駄だ。リシアの影を追って、こんなところまで来たのに。
筆をとる。形式ばった挨拶に、謝罪の言葉を並べ立てる。封蝋を流して冷え固まるのを待つ。
こんなものを送って、リシアは救われるのだろうか。治るのだろうか。アルミナ自身の心は楽になるのだろうか。まとまらない思考のまま、使用人を呼ぶ。先程と同じ使用人が即座にやって来た。
「これを、見舞いの品と共に」
「日取りを決めますか」
「……いいえ。私は、きっと会わない方が良い」
思い返せば、学苑で最初に会った時から、リシアは怯えていた。彼女からしてみれば、アルミナは過去の亡霊だったのだろう。いつまでも追いかけてくる、歌姫の影。
使用人を送り出し、部屋の扉を閉ざす。
リシアは、過去と決別しようとしていた。歌を忘れようとしていた。迷宮科で再起の道を歩もうとしていた。
その道を無責任にも、踏み荒らしてしまった。アルミナも、女公爵も、友人だと言っていた令嬢も。
笑う。
結局、罪悪感から逃げようとしているだけだ。「連帯責任」なんて言葉が思い浮かぶのは。
走馬灯のように、かつてのリシアの歌声を思い返す。
あの歌声が永遠に失われてしまったとしたら、どう償えば良いのだろう。
あんなにも、憧れていたのに。




