招待(3)
「……迷宮科の設立は、王の悲願と伺っております」
杯を手元に、スペサルティン卿を見つめる。
「私達もまた、その志を同じくしていたために」
「本心でしょうか。その時の貴女には他に道が無かったから、なのでは」
冷たく女公爵は言い放つ。
何故そんなことを、今更言うのだろう。
指先が震える。
「……王は、貴女方のことを思って迷宮科を設立したわけではありません。迷宮を占有するための駒として、貴女方を囲うためです」
黙したまま、女公爵の言葉に耳を傾ける。
「ジオードの元に下った時から、この国の腐敗は始まりました。特に腐臭が漂うのは、我々貴族の内からです」
嘆かわしいことに。
そう告げて、女公爵は眉を顰める。
「その腐敗を王は利用しました。即ち、既に形骸化した貴族に過去のような特権を与えるという名目で、王の名の下において迷宮内での活動を許可した」
それが迷宮科の始まりだと、聞いたことはあった。在学中も、また卒業後も冒険者としてエラキスでは優遇措置を受け入れられると。流入してきた冒険者達の待遇が悪いのも、それが一因だ。
だが今ならわかる。優遇措置なんて、在って無いようなものだと。
「他国が迷宮に伸ばした手を振り払う番人として、貴女方を使っているのです」
「……それは国として、必要な動きだったからなのでは」
「それなら兵を使えばよろしい。貴女方子供を使う理由にはならない。だからこそ私は、異議を唱えています」
女公爵は告げる。
「迷宮科などというものは、存在してはならない」
その言葉は、今のリシアにとっては耐え難いものだった。
「そんなこと、ありません」
それまでの女公爵への恐れも忘れて、否定する。
「私達はこれまで、国のためと思って迷宮科で励んできました」
「それが綺麗事だと言うのです」
「これまでの日々を、犠牲を、否定しないでください」
走馬灯のように記憶が廻る。母が消えた日のこと。楽譜を燃やした時のこと。マイカが去った時のこと。アキラと出会った時のこと。仲間を見捨てた同輩のこと。ネズミに貪られた学生のこと。
みんな、取り返しがつかないことなのに。
「……まだ、間に合います。傷ついた子供達への保障も」
「今更、立ち止まれると思いますか」
声が震える。
「間に合うことなんてありません。もう何もかも、手遅れ」
「いいえ。今からでも」
「もう、戻れないんです」
制服の裾を握り込んだ拳の上に、熱い雫が滴る。
それでもなお、女公爵は告げる。
「戻るのではありません。進むのです」
結局、女公爵はリシア達のような身持を崩した貴族の子女とは違う。その生活も心情も、理解することは出来ないのだろう。彼女はリシア達と違って「次の機会」がある人生を送ってきている。挫折しても這い上がればよいと思っている。きっと、挫折したことなんて無いのだろうに。
それもリシアの視野が、狭いだけなのだろうか。戻れるのだろうか。ただ楽しいからというだけの理由で歌っていた頃に。
いや。
答えは先程から出ている。もう何もかも手遅れで元には戻らない。
「私は」
掠れた声で告げる。
「かつて歌姫だったというだけで、元のように声楽を出来るとは思いません。かつての教師が去った理由は、金払いが悪くなり後ろ盾が居なくなったから、でした。楽譜を買うにも練習をするにも公演の場を得るのにも、繋がりとお金が要る。今のスフェーン家に、その何れも無い」
風を切るように、ぴゅうと音が混じる。
「それに、歌姫は毎年出てくるのに、一年前の歌姫を誰が特別視するのでしょうか。迷宮科が無くなっても、私の歌を望む人なんていない。私にはもう、何も無いんです。こんな小娘に今更、何が出来るのですか」
「リシア・スフェーン。道は何も歌だけでは」
「歌しか、無かったんです。そして今はもう何も無い。冒険者としても、何の才能も無いのに」
女公爵の目を見つめる。何時もの冷ややかな瞳が、いくらか動揺したように揺らいでいた。だがそれは、リシアの言葉を理解した故の揺らぎではない。
「手を差し伸べてくれるのなら、母がいた時にしてほしかった」
呟く。
それから先の言葉は、嗚咽にも怒声にもならなかった。
空気だけが喉笛を通り抜けていく。
声が、出ない。
「リシア」
女公爵が名を呼ぶ。声を出すどころか、呼吸までも体がやり方を忘れてしまったように出来なくなった。
耳の奥から心音が聞こえる。音が全部、塗りつぶされていく。
何事か叫ぶように口を開きながら、女公爵が席を立つ。案じるような手つきが、母のそれと似ていて、手を振り払った。
身分が上の者に対する、礼を失した行為だとはわかっている。それでも、もう、誰にも近付いてほしくなかった。
女公爵もマイカと同じ。味方のふりをしているだけの他人。その胸の内ではきっと、四大家同士の政治的な駆け引きと算段が繰り広げられている。リシアは最初から、その駆け引きで用いる駒でしかない。
視界が暗くなる。
何もかも、消えて無くなればいいのに。




