招待(2)
馬車の振動が止む。
扉が開き、赤い斜陽が差し込んだ。台を用意した御者が目を伏せ、出入り口の傍に控える。
先に動いたのは女公爵だった。その後にリシアも続く。この箱に籠るわけにもいかない。しかし、待ち受ける会合とも尋問ともつかない「話し合い」のことを考えると、気が滅入った。
手入れの行き届いた庭園を歩く。久方ぶりのスペサルティン邸は変わらず広大で、壮麗だった。
ここで庶子であった母は育ったという。母方の祖父母と出会った思い出は、あまり良いものではない。ただ、この家を訪れる時は常に、女公爵が側についていてくれたような覚えがある。母と女公爵は良好な関係を築けていたのだろうか。
前を歩く女公爵の様子を伺う。伸びた背筋に装飾を控えた衣服。幼い頃の記憶と変わらない様相だ。あれから、父はしっかりと歳を重ねているのに。
一方母は、と考えが飛びそうになって堪える。思い出したくもない。想い馳せたくもない。
「ここに来るのは、いつ以来でしたか」
不意に女公爵は口を開く。少々戸惑った後、答える。
「母がいなくなってからは、此処には」
「そうでしたか」
暫しの沈黙の後、女公爵は謝罪の言葉を告げた。スペサルティン卿も「失言」をするのだと全く見当の外れたことに衝撃を受ける。
「母ではなく、父に連れられてよく来たのは覚えています」
「……以前は、スフェーン卿に植栽を考えてもらっていたのです。碩学院での仕事の合間に、という条件でしたが」
そうだったのか、と腑に落ちる。朧げな思い出の中で、リシアと女公爵は常に庭の東屋にいた。あれは父が植栽の計画をしている間、共にいたのか。
「植栽はあの時のままです」
女公爵が立ち止まる。つられて周囲を見渡す。道を挟んで対照に木々を植え込むのは、伝統的な造園だ。しかしところどころで起伏を活かして水捌けの差異を作り、植え込む植物を変えて景観に動きを出している。スフェーン邸の庭とどこか似た風景は、確かに父の手が入っていると思わせるものだった。多年草ばかりなのも父の癖だ、と黒葉のスミレを見下ろしながら思う。
「手ずから、というのは防ぎましたが」
女公爵は溜息をつく。自身の家ならともかく、外で子爵が他人の庭を直接弄るのは、確かに宜しくないことなのだろう。その溜息からは、付き合いの長さゆえの諦めも感じ取れた。
「昔から、ああいう人だったのです。貴女のお父上は」
切れ長の瞳がふと、目端の力を抜いたように見えた。女公爵の険の無い表情は珍しい。
「今でも土いじりや現地調査をしているのでしょう」
「は、はい」
「幼い頃は、学苑裏の森でよく行方不明になっていたものです」
我が事のように恥ずかしくなる。同時に、今自分がここに存在していることをリシアは神に感謝する。デマントイド家の管理下にあるとはいえ、学苑裏の緑地は人の命など簡単に飲み込む。よく無事でいたものだ。いや、無事とは限らないが。
「毎回平然と戻ってくるのですから、先代も呆れていました」
「なんだか申し訳ありません」
「そのおかげで、助かったことがあります」
懐かしむように、女公爵はわずかに笑みを湛えた。更に穏やかになった、ともすればいたいけにも見える表情に目を奪われる。
そういえば、父は彼女と同級生で幼馴染でもあった。かつての友好関係が見え隠れして、かける言葉を失う。
きっと、その関係を壊したのは母なのだ。
「……東屋に紅茶を用意しています」
その言葉と共に、女公爵はいつも通りの表情に戻る。歩き出した彼女の後を再び追う。
多年草の庭園の先に、異国風の東屋が現れる。この東屋は父の手が入っていないのだろう。華やかな朱色の屋根の下、茶器の並べられた卓に着く。
「紅茶は飲んだことは」
「はい、何度か」
一般的な作法の通り、主人である女公爵が茶を振る舞う。白い茶器に映える紅と立ち上る香気が、これまでに飲んだ紅茶とは等級が違うことを予感させる。異国から持ち込まれる発酵した紅茶は、貴族であっても気軽に飲むことはできない。そもそも手に入れることが難しいのだ。王を輩出する家の、当主直々の会でもなければ。
杯が静かに、手元に配される。
女公爵の目が行動を強いる。杯を手に取り一口。
爽やかな風味と微かな渋みが、思考を揺さぶる。強い、と思った。ある種の紅茶は酔うと聞いたが、この紅茶がそういうものなのだろうか。
「先程の話の続きをしましょう」
女公爵は指を組む。
「迷宮科から離れなさい。リシア・スフェーン」
先程の昔話で垣間見せた穏やかさなど微塵も残っていない、冷たく威圧するような口調でスペサルティン卿は告げた。
「貴女はそこにいるべきではない……いいえ、貴女だけではない。どの子供も、迷宮にいるべきではありません」
その言葉が、マイカの言葉と重なった。




