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招待(1)

 今日は何も手につかなかった。


 何も頭に入らなかった。


 かろうじて筆記の跡が残る手帳を見下ろし、閉じる。鞄に納めて席を立つ。頭痛のせいか、視野が狭い。かえって他人が気にならなくなったのは、幸いなことかもしれない。


 いつものように渡り廊下に向かおうとして、立ち止まる。まだ普通科への規制は解除されていないはずだ。それに、正直なところアキラ以外の誰かに会ってしまうのが、今は恐ろしい。


 踵を返す。


 昇降口を出る。一縷の望みをかけて中庭を覗き込む。見知った顔は誰もいない。


 考えてみたら、今アキラに会っても、まともに応対が出来るとは思えない。家に帰って、部屋にこもって横になろう。そして全て、忘れてしまおう。ただの現実逃避だとわかっていても、足は止まらない。


 涸れた噴水の横を通る。いつかの依頼書が、脳裏をよぎった。父の代わりに植栽の妄想でもしよう。これもやっぱり、現実逃避だ。


 正門を出る。


 馬車停めに、見覚えの無い豪奢な車が停まっていた。以前令嬢に送り届けてもらった際に乗ったものよりは装飾を控えた、それでも他の馬車よりは良い造りだと一目でわかる代物。


 アルミナの迎えだろうか。


 少し迷って、俯き加減に歩く。後一息で横を通り抜けられる、というところで窓を覆う別珍の幕が上がった。


「リシア・スフェーン」


 静かな、それでも人を威圧する声がかけられる。足を止め、馬車を見上げる。


「時間はありますか」


 これまでに何度も向けられた、冷たい視線。


 女公爵は扇子で口元を隠し、もう一度告げた。


「時間は、ありますか」


 馬車の箱に向き直り、告げる。


「はい。ですが、どのようなご用件でしょうか」


 無礼であろう返答に、女公爵は表情を少しも変えずに答える。


「招待状の件についてです。それから、貴女の今後について」


 端的な言葉が、ただただ恐ろしい。口を引き結び女公爵を見上げる。


 御者が台を据え、馬車の扉を開けた。


 意を決して、踏み台をのぼる。踏み台も、続いて足を踏み入れた箱の床も、軋み音一つ立てない。視線で示された向かいの座席に腰を下ろす。


「……どちらへ向かうのですか」

「スペサルティン邸へ」


 答えに次いで、冷たい視線がリシアを射止める。


「貴女の父親とは、既に話は済ませています」


 話し合いは上手くいかなかったのだろう。気弱そうな父の顔を思い浮かべる。


 音も無く御者が扉を閉めた。蹄鉄の音を微かに響かせ、馬車は動き始める。


「貴女の歌を聞きたいという方がいます」

「アルミナ様でしょうか」

「ええ。その通り」


 話が早い、とばかりに女公爵は目元を緩める。


「今から、というわけではありません。ただ機会を作りたい」

「会合の前にですか」

「ええ。あまり、他人を交えたくはないので」


 布が窓を覆う。仄暗い箱の中で、女公爵は扇子を閉じた。


「貴女の幼馴染が最近、私の周りを彷徨いています。聞くところによると、エメリー家の令嬢とも関わっているとか」


 今朝、叩いてしまった元友人の顔を思い浮かべる。怖いもの知らずな子だ。以前は、そんな子だっただろうか。


「彼女の願いは、私の願いとそう変わりません」


 声音が穏やかなものになった。不気味なほどに。


「ただ、私は貴女を『歌姫』にする、とは言いません。それこそ、貴女の意思と努力で掴むべきものですから」


 女公爵は身を屈める。


「貴女を迷宮科から、解放してあげます」


 そう告げた。


 その言葉の意味を理解することを、一瞬、拒んでしまった。


「どういう、意味ですか」

「そのままの意味です。王のために、身を投げ打つ必要はない」


 尚更理解できない言葉が続く。


「王のためだなんて、私はただ」


 口籠る。言っていいのだろうか。国や王のためではなく、ただ生きる道を探すためだと。


 考え直す。言ったところで、彼女は考えを変えたりはしない。何も変わらない。


 黙するリシアを見つめ、女公爵は告げる。


「私は迷宮科というものの存在を、いまだに認めることが出来ません」


 あれは、人を死地に向かわせているだけ。


 そう囁いた。

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