憧れと障壁
護衛と称してつけられた衛兵からも、元歌姫の幼馴染だという娘からも、連絡はない。昼食後の、学苑へ向かう馬車の中で爪を噛む。
時間がない。選考までに彼女の歌を聴き、己の力量を省みないと。他の歌姫候補や声楽を志す者なら「危ない橋」などと言って避けるだろう。だがこんな事で心が折れるほど弱くはない。そも、そんな心の弱い人間が歌姫を志すことが間違っているのだ。
リシア・スフェーンは、越えるべき壁だ。
彼女はアルミナの世界に鮮烈な衝撃を伴って現れた。さる貴族の会合で彼女の歌を聞いた時から、大晶洞で最後の歌を聞いた時まで、リシアは憧れであり好敵手だった。もっとも、それをリシアが把握していたとは思えないけど。
リシアの歌はとにかく人を魅了する。耳を塞ぐことも考えつかない、至上の歌声だ。それをそっくり真似ようとは思わないが、学ぶものはあるはずだ。
いや、それすらも、言い訳でしかないのかもしれない。
ただ彼女の歌を、もう一度聴きたい。
馬車止めから校舎へ向かう。昼食どきの生徒達は、皆思い思いに行動している。学友と語らったり、ふざけ合ったり。いずれもアルミナにとっては未知のものだ。同時に不要なものだとも思う。
家業の都合でここに来る前は、家庭教師がついていた。ジオードの上流階級の家庭ではそれが普通だった。基礎的な学問を家庭教師から習い、興味が湧いたり伸び代があれば大学等に進学する。家業を継ぐのであれば、家族か懇意にしている別の家で経営を学ぶ。年頃の男女が通う「学校」も有りはしたけど、中流階級が主だと聞いていた。つまり、別世界の話だったのだ。
エラキスでも、当初は家庭教師がつく予定だった。だがあのリシアが学苑に居ると聞いて、考えを変えた。
此処に通えば、リシア「と」学べる。
そう思っていたのに。
真っ直ぐに音楽室へ向かう。まだ授業まで時間はある。声楽の講師に一曲見てもらおう。
今の時間は護衛の衛兵も離れている。普通科棟の講師室にでも居るのだろう。アルミナが戻ってきたことを知ったら、また着いてくるに違いない。正直なところ、アルミナの護衛よりもリシアの都合を探る方に尽力して欲しいのだが。
階段を昇る。下階の廊下を杖をつく音が響く。振り向いて見下ろすと、杖の先だけが見えた。
ああいう講師もいるのだろうか。全身を現した人間が手にしていた教科書のようなものを見て、思う。
講師が去った後で、何やら物々しげな応対が聞こえてきた。その相手がどうやら自身の護衛を務める衛兵のようで、階段の上から成り行きを見守る。というより、話が済むのを待つ。
「アルミナ様が望んでおられることだ」
そんな言葉が一際大きく響いた。何の話をしているのだろう。何かの責任転嫁だったりしたら非常に困る。顔を出そうかと思いつつ、再び聞こえてきた杖の音から身を隠す。
杖の音が階下で止まった。
心臓が何故か跳ねる。束の間、杖の音は渡り廊下の方向へと去っていった。杖の音が微かなものになったころ、粗暴な靴音が階段へと向かってくる。
「誰があんな余計なことを……!」
階段の踊り場で衛兵と鉢合わせる。素知らぬ顔で挨拶をした。
「ご機嫌よう」
「も、申し訳ございません。帰ってきていると知らずに」
「構いません。ところで」
何から聞こうか。悩んで、目下の課題について聞くことにする。
「スフェーン家の令嬢と、連絡は取れましたか」
衛兵はどこか気まずそうに視線を逸らす。
「……そのように手筈はしました。ただ先を越されたといいますか」
「先を越された?誰にですか」
「スペサルティン卿から、何かお話は伺っていますか」
問いを返され、眉を顰める。
思い当たる節はあった。
「会に招かれてはいますが」
「その会にスフェーン卿の娘も招かれているようです。それも、歌の依頼もあわせて」
「もしや、スペサルティン卿が橋渡しを画策しているとでも?」
「その可能性はあります。スペサルティン家とスフェーン家は、無関係というわけではないので」
願ってもないことだ。
エラキスの有力者であるスペサルティン卿から招待状が届いた時は、単に家業関係の話をする場を作りたいだけかと訝しんでいたが。彼女が何を望んでいるのかは見えないが、乗らせてもらおう。
衛兵に頼むまでもなかった、とは告げず、ひとまず労う。
「感謝いたします。貴方にも迷惑をおかけしたでしょう」
「いえ、とんでもない」
「……それともう一つ、先程何やら口論をしていたようですが」
そう尋ねた途端、衛兵の目つきが鋭くなる。アルミナの血縁にも多い、軍属の人間と同じ気配を纏った。
「それは……お答えできません。内々のことですので」
「学苑のことでしょうか」
「申し訳ございません」
こんな事にも言葉を濁すのか。意外に口の硬い衛兵に感心する。
「ところで、これから練習ですか」
衛兵は露骨に話を変えようとする。鼻で笑い、答えた。
「ええ。貴方もまた、見学しますか」
断りはしないのだろう。予想通り苦々しげに頷いた衛兵を見て、アルミナは音楽室へと向かった。




