図書準備室
傷つけてしまった。
逃げてしまった。
書架の間でひっそりと、うずくまる。運良く司書に見つからずに、此処に忍び込むことが出来た。途中すれ違った講師には、怪訝な目を向けられてしまったけど。
大丈夫だ。あの時はまだ、涙も出ていなかった。何事も無いかのように、本を返しに行くのだと伝えることが出来た。すぐにわかってしまう嘘なのに。
予鈴が響く。教室に行かなければならないのに、体が動かない。
用務員の小屋に籠った時のことを思い出した。あれは招かれたからで、今駆け込むわけにはいかない。また迷惑をかけてしまう。
何より、今のリシアは一方的な被害者ではない。マイカに平手打ちをしたのは、多くの生徒が目にしていたはずだ。
どんな経緯であれ、手を出した方が悪い。
リシアが悪いのだ。
あんなことで、頭に血が昇ってしまうなんて。
過去のことを忘れられない自分が、何もかも、悪い。
泣き声を押し殺した熱い吐息が漏れる。楽譜も何もかも歌に関することは全て捨てたはずだったけど、心残りだけは捨てることができなかった。だから、こんなにも無様に。
膝に顔を埋める。
昨晩の父の言葉が嫌だった。もう戻れないところまで来ているのに。転入生の歌姫候補の言葉も嫌だった。もうリシアは過去の人間で、今現役の歌姫候補と火花を散らすことなど出来るはずもないのに。再び歌姫になることなんて出来ないのに。マイカよりもずっと、誰よりも、自分自身がそのことをよくわかっているのに。
もう、触れないでほしい。
息を整える。
教室に行こう。講義を受けなければ。それしか道はないのだから。ふらふらと立ち上がり、書架の間から司書の様子を伺う。先程まで高椅子の上に腰掛けていたのだが、今は姿が見えない。
外出したか、館内を巡回しているのだろうか。
そう思った途端、声がかけられる。
「授業が始まっていますよ」
情けない声をあげてしまう。普段のような「お静かに」とたしなめる声の代わり、司書はため息をついた。
「酷い顔ですね」
言葉に詰まる。
「準備室を使いますか」
続く言葉は予想もしなかったものだった。しばらく固まっていると、二回目のため息が響く。
「こちらへ」
司書は椅子の奥の扉を手で示す。
返事の代わりに目元を拭った。
「お茶を一杯出します。それをお飲みになったら、退出してください」
厳格に司書は告げる。
「誰に対してもそうしています」
図書館に誰かが逃げ込むことは、それなりに多いのだろうか。落ち着くだけの一時は置いてくれる司書の譲歩に感謝する。
「ありがとうございます……」
とぼとぼと歩く。また助けてもらった。助けられてしまった。誰かに迷惑をかけていることは、心苦しい。それがずっと続いていることも知っている。
「ごめんなさい」
感謝と謝罪が同じ口から出る。マイカに見捨てられてすぐの頃は、いつもこの二つばかり口に出していた。それがアキラと出会ってからは鳴りを潜めていたと思う。要は、振り返したのだ。
部屋に入る。背後で司書が扉を閉めた。
卓の上には既に、一杯の茶が用意されていた。
「穀茶です。構いませんか」
「はい」
椅子に腰を下ろし、温い杯を取る。
流石にデマントイド卿の小屋のように、数種類の茶や菓子を用意しているわけではないらしい。当然か。ここはあくまで、書籍の管理をするための場所だ。それなのにこうやって、生徒のために茶と杯を用意してくれている司書を意外に思う。
「アンナベルグ氏が」
卓から離れた場所で図版を開き、点検しながら司書は告げる。
「生徒が逃げ込んできていたら、彼らに声をかけてほしいと」
「先生が」
「そもそも図書館はそういう場所ではないと、告げてはおきました」
萎縮する。
「そうしたら、毎朝毎夕顔を出すようになりました。困っている生徒がいないか、確認しているようです」
杯から口を離す。そんなことをしていたのか。
「……迷宮科は、退学や休学をする生徒が多いでしょう。無理もありません。冒険者は死と隣り合わせの職業なのですから。逃げたくなるのは当然です」
司書はリシアを一瞥する。
「アンナベルグ氏は、逃げることを否定はしません。むしろ、逃げた先でも生活を出来る術を模索しているようでもある」
一旦、言葉を切る。
「逃げ込むなら此処ではなく、あの講師の下だと思いますよ」
杯に視線を落とす。
確かに、今は逃げたい気持ちでいっぱいだ。ただそれは迷宮からではない。過去の、希望からだ。
「私」
頑張れます。
その言葉を噛み殺した。




