悪夢のように
夢か。
涙で腫れた目元を擦り、起き上がる。いったいいつの記憶が浮上してきたのだろう。マイカと無邪気に隠れんぼをして遊ぶことが出来た頃。まだ舞台に立って歌うのに慣れていない頃。考えても無駄な気がして、寝台から下りる。
窓の外は薄明。いつもと同じ起床時間だ。体に染みついた時間感覚に驚く。泣き疲れて、深夜かも朝方かもわからない時間にやっと眠りについたのに。
鏡台を覗く。酷い顔だ。父と執事には見せたくない、と思いつつ身支度を整える。
食堂に向かう。既に食事の準備は整えられており、執事が茶を注いでいた。
「おはよう、爺や」
「おはようございます。ご機嫌は、いかがですか」
様子を伺うように執事は尋ねる。やっぱりわかるよね、と苦笑いを浮かべる。それでも口は気丈なことを告げる。
「いつも通り。今日の朝食は?」
「パンと、昨日のお肉が少々残っております」
執事が引いてくれた椅子にかける。父は、まだ食堂には現れていない。
「お父様は?」
「まだ就寝中のようです。一度私が起こしに行ったのですが」
「次は私が行こうかしら」
「いえいえ。お嬢様は朝食をお召し上がりください」
そう制されて、おとなしく食事をとる。茶を配した後、執事は食堂から主人の寝室へ向かう。
昨日のことについて蒸し返されたら嫌だな。
そんな勝手なことを考えながら、パンに牛酪を塗る。一口齧ると、脂っ気が活力を与えてくれた。
それでも、食欲が増すことはなかった。パンと果物だけを納めて、茶を啜る。未だ戻ってこない執事に申し訳なく思いながら、鞄とウィンドミルを携えた。
「ご馳走様」
どこかで覚えた食後の礼を告げる。言葉は食堂に寂しく響いた。
学苑へ向かう。声楽部は珍しく合唱曲を歌っているようで、調和のとれた旋律が響いている。その中でも、やはり特徴のある歌声が聴こえる。彼女も合唱に参加しているようだ。華のある歌も支える歌もこなせる。今年の歌姫は彼女ではないかと、リシアは正直思っている。
だからこそ、かつて歌姫だったというだけの自分に執着することが、理解できない。この期に及んで他の候補や元歌姫の歌を聞くのは、余計な心労にしかならないのではないか。
ただ、アルミナがそんなことで心折れるとは思えないのも事実だ。
登校する他の生徒たちに紛れ、迷宮科棟へと向かう。
「リシア」
そこで、名を呼ばれた。
今朝見た夢でも聞いた記憶がある、幼気な声。
振り向く。
「おはよう、リシア」
花が綻ぶように聖女は微笑む。小走りで近づく彼女を目にして、足がすくむ。
華奢な、傷一つない手がリシアの手に絡む。
「昨日、スペサルティン卿から会に御招待いただいたでしょう?グロッシュラー家にも招待状が届いていたの」
よく通る声でそう告げる。道を行く生徒達が、マイカの声と姿につられて此方を向く。
くもぐった心音が、やけに大きく響いた。
「アルミナ様もいらっしゃるの」
ああ、やっぱり。
そう思ったのが顔に出たのか、マイカは少しだけ悲しげな表情を浮かべた。
「もちろん、リシアも来るでしょう?」
昨晩の父との会話を思い出す。首を横に振ると、マイカは目を見開いた。
「父が、確認してみると言っていたの。だって役場で突然渡された手紙だし」
「安心して。確かにスペサルティン卿からの招待状よ」
だから。
そう告げた途端、手に薄い爪が食い込む。冷たい掌が、マイカの風貌からかけ離れているように思えた。
「絶対に、歌ってほしい。この場で歌えば、リシアはまた歌姫になれる」
気がつけば、周囲には人だかりが出来ていた。聖女と一介の迷宮科生徒の言い争いだと思っているのだろう。
囁き声と視線が、痛い。
「歌姫になれるって、アルミナ様もいるのでしょう?そんなこと、言って良いとでも」
「いいえ。だって、間違っているのは今の方だもの」
聖女は微笑む。
「もう虚勢を張らないでいいの。諦めなくてもいいの。今度こそ、今度こそ私が味方になってあげる、最後まで」
囁き声がどよめきに変わる。
この女生徒は、何を言っているのだろう。
「貴女は此処に居るべきではない。また舞台に立って。だって」
一層、手を縛める力がこもる。
「私の親友で、最高の歌姫なんですもの」
手を振り解く。
そのまま、マイカの頬を叩いた。
音が響く。肉に触れた嫌な感触が、いつまでもいつまでも掌に残っている。
「やめて」
もうやめて。
やっとの思いでそう呟く。「歌姫」だった名残のかけらもない、掠れた声。
マイカは片頬を赤く染めたまま、目を見開いてこちらを見つめている。
今日はすぐには泣かないのだなと、頭の一部が妙に冷静に告げる。
むしろ、こちらが泣きたいぐらいなのだ。
そう思った瞬間、人混みから駆け抜ける。
鍵盤琴の音がぐちゃぐちゃと歪んで聞こえる。がむしゃらに走り、音から逃げた。




