不透明な先行き
浮蓮亭でのささやかな祝宴から一夜明けた今日は、珍しく何の予定もない日だった。
迷宮歩きで疲れた体をゆっくりと休めて次の課題や依頼をこなす英気を養う様に、などと偉そうな事を言って、昨日はアキラと別れたのだった。アキラの胸焼けしそうな食べっぷりと本職冒険者からの助言を思い出しつつ、リシアは鞄から手帳を取り出し、開いた。
終わらないかのように思えたキノコ狩りを終え、次の依頼を探しに行く前にリシアは滞っていた学苑の課題を見直す事にした。まだまだ採集課題の単位は足りていないし、小迷宮の探索や地図作成も行えていない。当然ながら、最終段階にあたる長期遠征の課題などこなせそうにもなかった。
教室の自席に着いて執事が持たせてくれた昼食を齧りつつ、リシアは手帳と睨み合う。片手に持っているのはほぐした魚を茹で卵と和え、薄く切ったウリと挟んだパンだ。卵の濃厚な風味とウリのシャキシャキとした歯応えが食欲を満たしてくれる。
アキラという強力な助っ人は確かにいる。だが彼女がいつまでも迷宮に興味を持ってくれるとは限らないし、素性が露見しそうになるなどの理由で止むを得ずアキラとの関係を解消することもあり得る。今のうちに目一杯課題をこなしておくべきだろう。
「うーん」
そこまで考えて行き詰まり、思わず唸り声をあげる。「いつでも呼んで」などと言っていたアキラだが、彼女にも普通科での学業がある。あまり彼女を頼りすぎて、あの御学友に目をつけられるのも恐ろしい。何回もアキラを迷宮に誘うのではなく、一回の探索で複数の課題や依頼をこなせるようにするのが得策ではないだろうか。
とりあえず今日はゆっくり休んで、明日辺り次の課題の打診をしよう。第二通路の地図作成なんかがやりやすいかもしれない。それと同時並行で植物の採集と同定もやって、いやその前に、あの呪術師が言っていた役所の依頼にも目を通しておきたいしあわよくば……
「無理をしていないか、リシア」
頭上から声が降ってきた。反射的に手帳を閉じ、前方に立っている人物の杖を見つめ、視線を上へずらす。
「あ……先生」
「昼食を取りながら単位の確認か。そんなに焦るほどの事でもないのでは」
呆れて、というよりは気にかけるような声音だった。慌てて口内に残ったパンを飲み込み、居住まいを正す。
「出遅れた分を取り戻したいので」
「今の調子で進めていけば何も問題はない……焦る方が危険だ」
宥めるような講師の言葉に、リシアは幾ばくかの冷静さを取り戻した。確かに焦りを抱えたまま迷宮に潜るのは非常に危険だ。その事はよくわかっている。情緒不安定になって、たまたま出会った元班員に怒鳴り散らしかねない。
「……大丈夫です。自分の力量を鑑みて、課題をこなすようにします」
その言葉に、講師も少しは安堵したようだ。顔から険が取れる。
「気をつけてくれ」
そして、思い出したように付け加えた。
「キノコ採りの依頼、達成できてよかったな」
「はい。途中までどうなるかと思ったんですけど」
「この時期はどこの組合もキノコ採りに躍起になるからな。第六班なんかもハチノスタケが見つからなくて難航しているようだ。出会ったら助言でもしてやってくれ」
助言と言っても、火の気のある所を探せ、くらいしか告げられる事はない。シラーやマイカならそのくらいは心得ているだろう。
「アンナ先生」
迷宮科の女生徒が二人、教室を覗き込んできた。リシアと同じ一年生の徽章を着けた、仲の良さそうな二人組だった。聞きなれない名称に講師は怪訝な顔をする。
「今度、私達の相談ものってくださいよ」
「学業に関する事なら構わないが、何だそのアンナセンセイというのは」
「可愛いじゃないですか」
「姓は蔑称にするものじゃない。エリスでよろしい」
「そんなー。別にふざけてるわけじゃないんですよ」
けらけらと笑う女生徒二人組とは対照的に、講師は少し困ったような、憮然としたような顔になる。軽く手を振って嵐のような女生徒達が去って行った後に、講師は軽く溜息をついた。
「からかわれている」
少なからず気にしているような講師には申し訳ないが、リシアも女生徒達と同じような感想を抱いていた。講師の名はエリス・アンナベルグ……そこそこに可憐な響きを持った、大陸起源の名だ。
私も可愛いと思います、とは言いにくい。リシアはどちらとも取れない笑みを浮かべることにした。
「リシアも、何か相談があったら心置き無く言ってくれ」
「はい。ありがとうございます」
「では……昼食の邪魔をしてすまなかった」
杖をつき、ゆっくりと講師は教室から出て行く。
この講師には、マイカが班を去って行った当時から心配ばかりかけている。何かと気にかけてくれていてありがたい限りだ。
無理なく着実に課題をこなしていけば、講師も少しは肩の荷が降りるだろうか。これ以上、出来の悪い教え子として迷惑をかけたくない。
一人リシアは奮起して、残ったパンを齧った。




