知らない顔
歌声が聞こえる。
教科書を鞄に詰めながら、アキラは耳を澄ませる。音楽室まで然程距離は無いが、それでもよく響き、人々の心を捉える声だ。これが歌姫候補なのかと思わず手を止め、聞き入る。
比べるのも烏滸がましいが、アキラが実技の授業で歌うのとはわけが違う。技術と才能。この二つを併せ持って初めて「歌姫」の選考の場に立てるのだろう。
一方で、重ねるように記憶の中の歌声が蘇る。
正確には、あれは歌とも言えなかったのかもしれない。しかし、リシアの口ずさんだ異種族の旋律にも、確かに惹きつけられたのだ。
「早速練習しているみたい」
いつもは早々と教室を去るセレスも、空いた席に腰掛け耳を傾けている。部活動が終わるまで付き合うのだろう。一瞬時計を気にするように見つめ、机に肘をつく。
「リシアのこと、どう答えようかと」
唐突に令嬢は告げる。困ったように下がった眉を見て、昼休みの出来事を指しているのだとアキラは察した。
「もしかしたら、アルミナがここに来た理由にリシアもあるのかも。だとしたら……期待外れだったかしら」
案内役ならではの苦悩を垣間見せ、ため息をつく。令嬢のこぼした言葉から垣間見えるリシアの影響力に、アキラは内心驚く。切磋琢磨をする間柄というだけではない執着が、そこにはあるような気がした。
それほどの「歌姫」だったのに。
少し悩んで、アキラは意を決した。
「セレス。セレスが答えてくれるかはわからないけど、聞いていい?」
主題のない問いにセレスは眉を顰め、それでも頷いた。
「ええ、何かしら」
「リシアについて」
再び具体的でない問いだったが、即座に理解したのか難しげな表情になる。暫し黙した後、令嬢は口を開いた。
「……確かに、本人には聞きづらいことかもね」
「歌のこと。前々から聞いてはいたけど、昔学んでいたってことしか知らなくて。歌姫っていう役職もどういうものか正直よくわかってない。リシアが、その歌姫だったっていうのもセレス達が話しているのを聞いて、なんとなく」
少なくとも迷宮の中では、お互いの過去はそこまで重要ではない情報だった。でもふと気がついた時、友人であるはずのリシアのことを、アキラは何も知らないのだと突きつけられる瞬間がある。
例えば、リシアの元友人と相対した時。
「リシアのこと、全然知らない」
言葉にしたそれは思いの外冷たく聞こえて、ついセレスの様子をうかがう。アキラの予想に反して、令嬢は寂しげに微笑んでいた。
「全てを知る必要は、ないと思うけど」
咎められたと、令嬢の言葉に萎縮する。
「聞かない方がいい?余計な詮索……だよね」
「うーん、そうねえ」
首を捻った後、打って変わって人懐こく笑った。
「歌姫に選ばれたほどの天才、っていうのは知るべき情報だから言っとこうかしら」
「やっぱり凄いんだ」
「あと、お父様が博物学の大家で、リシアも花に詳しいとか」
「あ、確かに」
「ちょっと心配性」
「うん」
「知ってるじゃない。リシアのこと」
目を丸くする。
セレスは滅多に見られないアキラの表情を笑いながら、告げた。
「貴女は人並みに気が利くんだから、リシアを傷つけない言葉は選べるでしょう?」
あまり過去に踏み入るなと、言われたような気がした。同時に、それが無意味なことであるとも。
アキラは頷く。
友人の肯首を見て、セレスは再び物寂しげな笑顔に戻る。
「そんなに焦らなくても、いつかは話してくれると思うし」
「そう?」
「ええ。周りから見ていたら、リシアは十分に貴女に気を許しているわ」
付き合いの長い私のほうが警戒されているくらい。
そうぼやいて令嬢は席を立つ。
「そろそろアルミナを迎えに行こうかしら」
「一緒に帰るんだ」
「会食なの。エメリー家と、あの人のね。私は末席」
多分、公務というやつだ。多忙な二人に敬意を示すように頭を下げる。それを見て令嬢は軽く手を振った。
「やだ」
笑い飛ばし、鞄を携える。
「アキラも帰る?」
「うん。今日は特に約束もしてない」
「確かに、大きな依頼の後だものね。ゆっくり休んで」
また明日、とセレスは去っていった。
しばらくアキラは教室に残り、斜陽を眺める。先程の令嬢との会話を噛み締めた後、帰り支度を始める。
歌声の名残もない廊下を歩く。静かな夜が迫っていた。




