音楽室へ(2)
「……ごめんなさい。それは、私からは話せないわ」
先に口を開いたのはセレスだった。家のことだから、と付け加える。そう伝えたら一先ずは退くのだろう、普通は。
「何かあったとしても、普通科ではなくとも。歌は続けているのよね」
威圧を伴った声でアルミナは問う。穏やかではない様子に気押されることもなく、セレスは首を横に振った。
「いいえ。私が知る限り、もう歌からは離れている。今回の歌姫の候補にも上がらなかったの」
「何故?あの子なら、推薦する人なんていくらでもいるでしょう」
セレスは沈痛な面持ちのまま黙する。その様を見て、アルミナも一度は言葉を飲み込んだ。しかしすぐに激情のこもった声で追及する。
「後ろ盾が居ないはずはない。それに、一度は歌姫になれた子を捨てる教師なんて、ありえない。ご家族だって」
アルミナは気を吐く。ひとしきり言い立てた後、呼吸を落ち着けるようにため息をついた。
「声楽部にも、いないということ?」
「ええ」
とどめのようなセレスの言葉に、アルミナは唇を噛む。
「音楽室は、今度にする?」
「……いいえ。案内してほしい」
様子をうかがう令嬢の傍らで、先程の気炎が嘘のように落ち着いた返事をする。一方、セレスと違ってアキラはアルミナの剣幕にしっかり気押されていた。
アキラは、歌姫としてのリシアを知らない。あやふやな像でしかない彼女に、ここまでの想いを抱えたアルミナの姿を目の当たりにして、愕然とする。
知らないことばかりだ。
「もう一人の元候補についても、聞いていいかしら」
「リューのこと?今は、家で療養なさっていると聞いたわ」
「療養?」
訝しげに眉をひそめるアルミナは、すぐに目を伏せる。
「ごめんなさい。これも、詮索することじゃないわね」
それきり黙したまま、音楽室に三人は至る。
昼休みの喧騒から離れた教室からは、些細な物音すら聞こえない。
以前は鍵盤琴の音や歌声が、この部屋からよく聞こえていたことを今更ながらアキラは思い出す。
いつから、聞こえなくなったのか。
セレスが戸の前に立ち、軽く声を張る。
「ハウエル先生、ご在室でしょうか」
声が染み入るように消えた後、音も無く戸が開く。青白い顔が隙間から覗いた。
「まあ、殿下」
「休憩中、申し訳ございません。音楽室の見学に来たのですが」
「見学……まさか、入部希望でしょうか」
「私ではなく、彼女が」
セレスが目配せをすると、アルミナは優雅に礼をした。
「シュティレ・ハウエル先生ですね。お噂はかねがね。私はアルミナ・エメリーと申します」
流れるような名乗りを、音楽講師はぼんやりとした様子で見つめる。覇気のない様子にアキラは不安になる。どことなく、調子が悪い時の大家に似ていたからだ。
「エメリー……もしや、今期の選考に残っていた」
「はい!」
ずいと、アルミナは距離を詰める。老婦人が吹き飛ばされそうな気迫に思わずアキラは支えるように手を伸ばした。
「家業の都合でエラキスに来ることになり、その間貴女の手解きを受けたいと思いまして……試験や条件があるのなら、お教えください」
「いいえ、そのようなものはございませんが、ただ」
歯切れ悪く、音楽講師は言葉をこぼす。
「私でよろしいのでしょうか」
「貴女の名はジオードでも耳にします。是非とも、貴女の下で学びたいのです」
熱意のこもった眼差しが講師を射止める。一層小さくなった講師は、微かに頷いた。
こんな人だったか。
講師の痩せた肩を支えながら、入学当初をアキラは思い返す。当時、と言ってもほんの数ヶ月前の講師は、もっとかくしゃくとした印象だった。よく通る声も今は乾燥した声音だ。
こっそり周囲を見渡す。
講師以外は誰もいなかったのであろう教室の片隅に佇む鍵盤琴の蓋が閉じていた。部活動に励む生徒なら、休憩時間も部室に通い詰めることも珍しくはない。ましてや声楽部は歌姫が所属していたこともある部活動なのだ。もっと精力的に活動していてもおかしくはない、はずだ。
「……練習は放課後に行っています」
講師の搾り出すような返答に、アルミナは目を輝かせる。
「感謝します、ハウエル先生」
頭を下げるアルミナに続き、セレスも会釈をする。
「それと、見学とのことでしたね。中へどうぞ」
「失礼します」
室内に女生徒達を導き入れ、講師は設備を辿々しく説明する。転入生はぴったりと横について聞いていたが、アキラとセレスは少し遠巻きに二人を見つめていた。
「ハウエル先生のお許しが出て良かった」
「うん……」
表面上は当たり障りのない会話だが、セレスも講師のことを気にかけているのは察することができた。
歌姫候補を失ったことで、気力が衰えてしまったのだろう。
それなら、アルミナを指導することで再び気力を取り戻すのだろうか。
枯れ木のような姿を見守りながら、アキラは不安の色を瞳に湛えた。




