朝礼
日差しを避けて渡り廊下の陰に入る。
迷宮での活動を想定しているために、迷宮科の制服の上衣は長袖に仕立てられている。夏は多少薄手の生地だが、それでも日差しの元で活動するには厚すぎる。頬を伝う汗を拭い、リシアは屋内へと足早に進んだ。
少し、家を出るのが遅かった。まだ予鈴は鳴っていないはずだが、既に行き交う生徒の姿は無い。
講師に用件を伝えるのは、後にしよう。確か一限目が迷宮科だから、その後に声をかけてみようか。
鞄の中に収められた書類を思いながら、リシアは階段を駆け上る。案の定教室には既に級友が揃っていて、講師の到来を待っていた。背側の扉からそそくさと入室し、席に着く。
「おはよう」
隣にかけた女生徒が小さく囁いた。思わず後ろを振り向いて声をかけた相手を確認する。少し頬を染めながら挨拶を返す。
「お、おはよう」
女生徒は何事もなかったかのように前を向く。無視されたり、興味を持たれたり。ここ最近はそんなことの繰り返しだ。衛兵との件は、いまだにほとぼりが冷めたとは言い難いが、露骨に避けられることもなくリシアは教室に居ることを許されていた。
一方で、改めて周りを見渡すと見知った顔がいなくなっていることに気付く。随分と同輩が減ってしまった。彼らと少なからず関わってきた事を思い、リシアは縮こまる。
予鈴が鳴り響く。
教壇に立った姿を見て、眉を顰める。
「……起立と、言わなければならないのか?」
迷宮科棟では一度も見かけたことのない、普通科専任の講師だ。批難めいた言葉の後に遅れて日直の生徒が号令を発する。席を立ち、背筋を伸ばす。
何が起きるのだろう。普通科の講師が授業以外で迷宮科に立ち入ることは滅多にない。それも朝礼の時間に、改まって現れるなど。
「迷宮科の諸君。本日より、学業実態の調査が入る。日頃と変わらず励むように」
疑問符が乱舞する。
青天の霹靂だ。周囲の響めきが大きくなる。途端、露骨に壮年の講師は顔を歪めた。
「静粛に」
「ガブロ主任」
杖をつく音が一つ響く。アンナベルグ講師は一礼をした後、教室に入った。主任講師の表情が強張る。年数や立場が意味をなさない、独特の雰囲気を講師は持っている。おそらく殺気などと呼ばれる類いのものなのだろう。
「生徒が困惑しています」
説明しろ、と言外に告げる。主任は咳払いをした後、生徒に向き直った。
「王は、迷宮科の諸君に多大なる期待を寄せている。その期待に応えられているかを、客観的に、審議する。無論結果によっては」
主任は一度言葉を切り、講師を見た。
「講義、実習、出来うる範囲で視察が入る。一つ付け加えるなら、この結果が君達の成績に反映されることはないと、学苑長から言葉をいただいている」
主任を一瞥もせずに講師は告げる。成績に関わらない視察ということは、測られているのは学生ではなく「迷宮科」そのものではないか。
監査だ。ということは、処分もあり得る。どんな処分が下されるのか。
「質問は」
取ってつけたように主任が問う。挙手をする者はいなかった。
「……告知はした」
教壇から降りて、主任は講師に向き立つ。
「他の教室も回ってきたのか」
「告知に同席するべきかと」
ふん、と鼻を鳴らす。
「耳聡いことだ」
靴音を響かせ、教室を後にする。足音が遠く離れた頃に講師は教壇から告げた。
「他に質問は」
今度は、おそるおそるといった様子で数名が手を挙げた。一人を示す。
「いつも通りで、いいんですか。何か依頼をもっと取るとか課外をこなすとか、そういうのは」
「各々の力に合わせて、課程を進めてくれ。焦る必要はない。いつも通りで良い」
「立ち会うのって、普通科の先生たちですか」
「両学科の講師が持ち回りで行う。また、迷宮内での活動では衛兵が同行する。課外自体には視察は入らないが、書類と成果物の申告の際に他の講師が立ち会う」
「これって、迷宮科の存続に関わりますか」
水を打ったように教室は静まり返る。誰の質問かもわからない。ただ、全員が心のどこかで考えていたことなのだろう。黙したまま、生徒達は返答を待つ。
講師はいつもと変わらぬ表情で、暫し灰色の目を伏せた。
「まだ、わからない」
それが、今の講師から伝えられる言葉なのだろう。その歯痒さを、リシア達生徒は感じ取った。
教壇の上で教科書を開く。頁をめくる音が、冗談のように良く響いた。
「昨日の続きから始める」
その言葉を聞いて、生徒は「普段の授業」に戻っていった。
出遅れたリシアは鞄を探り、周囲を見渡す。
視界の隅、廊下の端で人影がちらりと動いた。
もう始まっているのか。
何事もなかったかのように教科書と手帳を机の上に広げ、リシアもまた迷宮科の日常風景の一部となった。




