宿無花果
相変わらず、時間の感覚が無い。
何度目かもわからない時計の確認の後、リシアはため息をつく。
「二十分……」
「あれ。もうそんなに?」
「まだ二十分だよ」
そこまで疲れてはいない。水もまだ、充分に残っている。ただ熊に襲われてから続く緊張が、地上への迅速な帰還を急かすのだ。変わり映えのしない通路の光景も不安要素でしかない。
「進んでる?」
「進んでるよ」
そう言いつつアキラも周囲を見渡す。昨日のどの時点で通った場所か、彼女も思い出せないのだろう。
他の冒険者三名は、リシアのように弱音じみた会話をすることもなく周囲を哨戒している。内一人は大荷物が増えたというのに、動きに疲労の影は見えない。
本職なんだな、とわかりきったことをぼんやりと思う。
「昨日、蟹をとったところは過ぎた?」
「うーん、まだ」
「そっかあ」
確か、エラキスを経って一時間ほどの場所だったか。まだまだ先は長い。
「こう言う時って、採取は出来ないのかな?」
リシアが暇だと思ったのだろう。アキラの提案に首を横に振る。
「隊列を崩すのは良くない。襲撃があったとか、隊列自体が止まる時ぐらいしか出来ないと思う」
リシアの見解を聞いて、アキラは腑に落ちた様子で頷く。
「あ……そうか」
「あんまり内職は出来ないものだね」
依頼に集中、とは思うものの、周囲に目移りしてしまう。気を引き締めるために頬を叩いた。ぺちぺちと情けない音が響く。
「でも、地図と情報ぐらいは描こうかな」
手帳を開く。ほぼ一本道の通路だが、最前線までの地理は把握しておけば今後役に立つはずだ。薄らと記した地図を見て、昨日の自分に感謝をする。
「ここが基地だから、ここら辺で熊に会ってる、はず」
「そろそろ半分じゃない?」
「うーん。三分の一は過ぎてると思うけど」
アキラと共有しつつ地図を書き込む。復習でもあるのだと、リシアは納得した。
本職冒険者も、多くは手描きの地図を持つという。「夜干舎」の組合員の地図も、見てみたいものだ……と考え、ふと気がつく。異種族には、ハロのように方向感覚に優れる者もいる。ドレイクはともかく、セリアンスロープやフェアリーには必要が無い物かもしれない。
アニュイはどうだろうか。
この通路の最深部を知っているのであろう彼女が、「ごく普通の冒険者」なら当然地図も記しているはずだ。でも彼女は、普通とは言い難い。地図など無くても地上へ帰って来られるなどと平気な顔をして言いそうだ。
そもそも、帰る必要があるのだろうか。
我に返る。あんまりな想像だ。誰にだって帰る場所はある。口には出さなかったものの、申し訳なく思ってリシアは頬を掻く。
前を歩くアニュイをこっそりと窺う。両手の空いた、気を張り詰めているようには見えない姿だ。だが有事の際には誰よりも適当に反応するのだろう。
「リシア、あの木」
アキラが壁際を指差す。どこかで見た植物が着生して茂みを作っていた。
「昨日の、ヤドリイチジクだっけ」
「場所は違うけど、似てるね。蟹にへばりつかなくても生きていけるんだ」
あるいは、宿主を使い潰した後なのかもしれない。念の為ウィンドミルの柄に手をかけ、注視する。
ただの茂みだ。
「ちょっと待って!」
隊列の中央から聞き覚えのある声が響く。
冒険者の間を縫い、見覚えのある学士が現れた。
「蟹についてない迷宮産ヤドリイチジク!」
そう叫びながら駆け出していった。唖然として、すぐに後を追う。
「あ、危ないですよ!」
他の学士や冒険者は追って来ない。お守りはリシアに任せた、とでも言うような目をしている。
当の学士は嬉々として手鋸を片手に茂みを周回する。
「ホルンフェルスさん」
学士の名を呼ぶ。茂みの向こうで返事が聞こえた。
「リシアさん!見てください、こっちは葉の縁が鋸歯状なんです」
「二型あるんですね」
興味をそそられながらも受け答えをしつつ、改めて茂みの根元を確かめる。蟹はいない。
「……標本、取れましたか」
「はい!」
枝の切れ端と共に満面の笑みが現れる。
「ここには実もあったんですよ!正確には花ですけど」
そう告げて枝をもう一本刈り取る。葉に「実」が二つ。根が揃っていたら立派な植物標本になるだろう。
「いかがですか?」
言外に「お父上に」と聞こえたような気がして、苦笑いを返す。それはともかくとして、ありがたく受け取った。
「いい収穫でした。今回の調査に来て本当に良かった」
手鋸を剥き出しにしたまま感慨深く呟くホルンフェルスを見て、リシアは小さく頷く。
この依頼を受けて良かったと思えるだろうか。
その前に、無事に辿り着かなければならない。それとなく隊列を指し示して、リシアは学士を導いた。




