深淵を覗けば
結局、リシアは汁のお代わりを頂戴してアキラはパンを三つ追加で食べた。
後に差し支えないように多少胃袋に空きを残したが、それでも気持ちは充分に満たされた。片隅に併設されていた水場で食器を洗いながら、集合時間を夜干舎と確認する。
「もうそんな時間ですか」
「ま、碩学院が動いてくれないとこちらも動けないんだけどね。もしかしたら、まだ相談中かも」
先程別れたアガタ達の事を指しているのだろう。確かに主導権は彼らにある。「相談」が長引けば、その分出発も遅れる。
だが、その心配は即座に杞憂に終わった。
「あら!ご飯食べ終わったの?」
背後から声をかけられ、リシアは振り向く。アガタが手を振り駆け寄ってきた。
「はい。蟹、美味しかったですよ」
「あ!あの蟹朝食になってたの?えー、まだ残ってるかしら」
そう告げるアガタの視線の先で、大鍋と焜炉が着々と片付けられていく。どこか気落ちした様子の麗人にどう声をかけるべきか迷って、リシアは苦笑いを浮かべた。
「その、そんなに残念がらないでください」
「また獲れるかもしれないし、蟹」
アキラも慰めの言葉を告げる。あんなことがまたあっても困る。
「そうねえ……口直しにでもと思ったんだけど」
「アガタさん達の朝食は」
「粥に穀類を焙煎した粉をかけたもの、とでも言えばいいのかしら。碩学院推奨の完全栄養食」
目を丸くする。完全栄養食などというものもあるのか。かなり惹かれる響きだが、続いた言葉にやや興味が薄まる。
「集会所にまでアレが出るのは、気が滅入っちゃう」
アガタには不評のようだ。味はお察しというところか。
「他の冒険者も集合場所に集まってきているみたいだ」
「数学科あたりが声をかけたのかも」
そう言いながら、アガタは外套の下から懐中時計を取り出す。文字盤を眺め、女学生二人に囁いた。
「少しだけ時間はあるわね。もし良かったら、物見台までいかない?後学のためにも」
洗い終わった食器を布巾で拭いながら、アキラと目を合わせる。好奇に輝く瞳には、同じような表情のリシア自身が写り込んでいた。
「行きたいです!」
「そう言うと思ってたの。ケインさん達も行く?」
「ん、ものすごく惹かれるが……」
荷物を背負い、既に準備万端の組合員を横目にケインは笑う。
「出発前に確認もしておきたい。折角のお誘いだが、悪いね」
「じゃあ三人で行きましょうか。また後で!」
「ああ」
アガタが先立ち、後をついていく。
倉庫のような空間の片隅に上部へ続く螺旋階段があった。思わず天井を眺める。どこから、「天井」が出来ていたのか。
「二階があるんですか」
「この広間まで門の一部なの。二階より上は物見台で、碩学院の研究室もあるのよ」
アガタの話を聞きつつ二階に上がる。
暗い廊下を緩い風が吹き抜けた。どこか学苑の渡り廊下を彷彿とさせる作りで、リシアは自身が何処にいるのか曖昧になる。
「屋上まで行きましょうか」
アガタの言葉に導かれ、更に上へと進む。螺旋の最果てに金庫扉のような把手が現れた。
「錠前が重たいのよねえ、変なのが侵入したら困るから当然だけど」
意外に筋張った両手が把手を回す。抵抗があるのか時間をかけて、錠は動いた。
バネでも付いているのだろう、開錠後は軽く押すだけであっさりと扉が開く。
薄闇の中に、アガタの後ろ姿がぼんやりと浮かび上がる。
「ここから、最前線を見渡せる」
靴音を響かせながら、学徒は進む。その後を躊躇いなくアキラが追い、リシアも続いた。
屋上のへりには簡素な手摺りが付いていた。そこからも僅かに離れて、リシアは最前線を見下ろす。
闇の中に、微かな灯りがちらつく。頼りない灯りを照り返す岩肌がどこまで続いているのか目で追う。
視線が上がり首を反らす。頭上にも空虚な闇が広がっていた。
「あ」
漏れた声が木霊する。
高く、広く、深く。
「果てしないわね、迷宮って」
アガタは呟く。その言葉も、闇に木霊して染み込んでいく。
「ここから急に開けるの。高さがあるのが難点なのよねえ、軌道は吊り下げ式にする予定だったのに」
「こんなに」
声が上擦る。
「こんなに、こわいんだ」
高くて、広くて、深くて。
暗くて。
ウィンドミルの柄を握り込む。仄かな炉の灯りにでも、今は縋りたい。
きっといつかは、この灯りを頼りに「最前線」を進むこともあるのだろう。
でも今は、呑まれる。
冷や汗を拭う。平常ではない様子のリシアを見て、アガタは困惑したように背中をさすった。
「ごめんなさい、大丈夫?怖がらせてしまうとは思わなくて」
「怖いというか、気圧されたというか……その、アガタさんは悪くないです」
精一杯笑顔を浮かべ、謝るアガタを宥める。
「見ることができて、良かった」
そう告げると、やっと学士は安堵したのか笑顔を取り戻した。
「それなら良いけど……やっぱり、顔色が悪いわ。戻りましょうか」
「はい」
「本当にごめんなさいね。お食事出してくれてる組合に頼んだら、何か温かいのとか出してくれるかしら」
それでも心配そうに独りごちながらアガタは扉へと向かう。
苦笑いを浮かべ、リシアは同輩の名を呼ぶ。
「アキラ、行こうか」
返事が無い。
振り返ると、屋上のへりに立つアキラの姿が見えた。
その背中が酷く、遠く感じる。
「アキラ」
再び名を呼ぶ。
我に返った素振りもなく、ゆっくりとアキラはこちらを振り返る。
夜色の瞳が、不思議なものを見るようにリシアを見つめていた。
「どこいくの」
不可解な返答だとリシアは思った。
同時に、間違えてはいけないとも思った。
「エラキスだよ」
遠いアキラに手を差し伸べる。
「帰ろう。みんな待ってるよ」
ほんの僅かな間、アキラは立ち尽くす。
リシアの手を見つめ、一歩足を踏み出した。
途端、朧げだった姿が確かな存在感を取り戻した。
すかさず手を取る。
湯にも浸かって温かな食事をとった後だというのに、指先は冷え切っていた。




