助言
なんとか誤解を解き、宿を出る。
「何もなかったのなら、良かった……」
心の底から安堵したのか、ケインは息を吐く。その隣でハロが不機嫌そうに口を尖らせた。
「いや何もなかったわけではないでしょ」
「事件性はなかった、ということだ」
「事件って」
何事か嫌味でも言おうとして、思い直したのかハルピュイアは口を閉ざす。しかしどうにも思うところがあったのか、苦虫を噛み潰したような表情をしながらぼそりと呟いた。
「教えときゃ良かったってこと?」
その言葉を聞いて、リシアは目を泳がせる。他方ケインは一層申し訳なさそうに耳を寝かせた。
「学生だからと思って配慮したのが裏目に出てしまったか。リシアが普段察しが良いのもあって」
「いいえ、こういうのはその、察せなかったのも悪かったというか」
「だとしてもさ、警戒心無さすぎでしょ」
ぐうの音も出ない。
黙するリシアにハロは畳み掛ける。
「連れを見習ったら?この間だって変なのに絡まれ」
「ハロ」
ケインの人差し指が、何かをなぞるように真横に揺れた。途端、ハルピュイアは囀りを止める。
「……世の中の良からぬ輩を肯定することは絶対に無いが、自衛は大事だ。だからこそ先達が、こう、助言するのが必要で」
言葉を捻り出すようにセリアンスロープの先達は告げる。
「ちゃんと言うようにしなきゃなあ」
再び、耳がぺたりと頭に張り付く。その姿を見てリシアも自然、視線が下を向く。
「すみません。気をつけます」
謝罪の言葉を、夜干舎は複雑そうな表情で聞く。暫しの沈黙の後、ケインが気まずげに口を開いた。
「こういうの、前はどうしてたかな」
前身の夜干舎を指すのだろう。セリアンスロープは腕を組み、首を傾げる。
「アムネリスなんかは率直に言ってたが、率直過ぎてよくわからなかったこともあったし」
隣でもごもごと口を動かしていたハロが、息をつくと同時に吹き出した。
「何も知らないわけでもないでしょ、長いことこんな仕事していて。ケインまで学生気分?」
「昔話だ昔話」
「面倒な気を利かせずに言えばいいじゃん。それこそ部屋に連れ込んだ女みたいに。そうでもしないとわかんないんじゃない、お嬢様方は」
「察しが良い」とケインは言っていたが、実際は真逆だとリシア自身は評価している。ハロも同様なのだろう。
言わないとわからない。言ってもらえるだけ、有り難い事だ。
「そんなことするのも今回限りだと思うけど」
「うん……ありがとう」
そう告げると、ハロは訝しげに眉を顰めた。
「アリガトウなの?そこ」
「教えてくれるから」
「うん。ありがとう」
畳み掛けてきたアキラをハルピュイアはじとりと睨む。
ふと、視線を感じて宿泊所を仰ぎ見る。二階の窓から、誰かが手だけを出して振った。
あ、と小さく溢したのに気付いたのか、アキラも宿を見上げる。
「あの人?」
「うん。部屋もあそこだったはず」
そんな短いやり取りの間に、手は窓の内に消えた。
「……見送りなんて、気にかけてるね」
そうなのか。もう見てはいないだろうが、窓に向かって小さく手を振りかえす。
「普通はことが済んだら、さっさとさよならでしょ」
「こと?」
「てか、鍵盤琴の手習いをして対価に何も貰わなかったの。ああいう商売はそこら辺細かいヒトが多いけど」
対価を貰うという発想は全く無かった。頬を掻き、苦し紛れに言葉を発する。
「その、全然……考えてませんでした」
「学ぶことが多いねぇ」
不機嫌な様子はそのままに、ハロは笑い混じりで告げる。
「少し注意を貰ったぐらい」
「注意って?」
辺りを見渡す。碩学院の関係者はいない。
だが、今まさに碩学院からの依頼を受けている途中なのだ。話してもいいものか少し悩み、「情報共有」ということで落ち着く。
「碩学院の、数学科の依頼には気をつけてって」
「数学科」
アキラは復唱する。
今回の調査にも数学科は参加している。彼らの目的は未だ見えていないが、側からはただ死地に向かわされているように見えるらしい。
そういった指示を出しているのであろう人物の名を出そうとして、フェアリーが先に言葉を発した。
「情報を売ってもらったのですね」
目を丸くしていると、ハロが何度目かのため息をついた。
「ちゃんと対価渡してくれてるじゃん」
「これが?」
「下手したら命に関わるんだから、めちゃくちゃ重要でしょ。それ目的で買う奴もいるんだから」
そういった情報が集まる場所でもあったのか、あそこは。
「良いこと教えたげる」という言葉が脳裏をよぎる。右も左もわからない女学生への礼だったのだ。
「変なところで運が良いよね。それなりに義理堅い奴と会えたり」
羨ましがるわけでもなく、肩をすくめてハロは告げた。




