朝風呂(2)
湯を汲み、温度を確かめる。ちょうどいい温かさだ。どうやら自由に使って良いらしい桶に並々と満ちた湯で、まずは顔を洗った。ごく普通の地下水なのだろう。避暑地の鉱水のような独特の手触りや匂いは無い。どこかで動く湯沸かし器の振動を感じながら、何か薬草で色と匂いをつけたような石鹸を手に取る。
「もしかして、蒸気機関を既に導入しているんでしょうか」
石鹸を泡立てながらセリアンスロープに尋ねる。いいや、と隣で身体を泡だらけにしたケインは首を振った。
「これからみたいだ。今回の調査は、その事前準備らしい」
ここにあるのは本当にただの釜らしい。どうやって運び込んだのか、どこから燃料を調達しているのか、そんなことを止めどなく考えてしまう。
「エラキスからここまで直通の鋼索道が出来たら、護衛の依頼も減っちゃいそうだなあ……むしろ、索道を守る依頼が増えるのか?」
「馬車の護衛みたいな感じですか」
「そうだね、不届者を放り出す仕事や進路に侵入した動物を追い払う仕事、箱そのものを修繕する仕事……おや、そう考えると今の仕事と似たようなものか」
索道に、更に言えば蒸気機関に仕事を奪われる冒険者もいるのだろうか。今回の依頼を受けることにした理由を思い返して、リシアは気を引き締める。様々な仕事を知るという判断は正しかった。
泡を湯で流すと、肌が突っ張るような感覚があった。まだ泡だらけのケインやアキラを横目に、先に湯船に浸かる。
ほ、と口から空気が逃げた。湯煙に滲む灯りをぼんやりと見上げる。
戸を開く音が聞こえた。
「今、女風呂の時間ですか?」
続いて番台に問いかける声。声の高さからして女性だろう。むにゃむにゃと何事か老女が答える。衝立の陰から、見覚えのある姿が現れた。
二階の女冒険者だ。
目が合い、会釈を互いに交わす。冒険者はやはり困ったような笑顔を浮かべて服を脱ぎ始めた。上衣を捲り上げた横腹に大きな貫通痕が見えて、目を逸らす。
以前出会った遺物の、水を撃ち出す攻撃方法を思い出してしまった。
他の冒険者が言うところの「死に損ない」かもしれない。失礼で、それでもどこか畏怖を含んだ言葉を振り払い、再び灯りを注視する。
ひたひたと濡れた床を歩く音がする。
視界の端で、赤銅色の尾が膨れた。
「ん……」
ケインは微かに声をあげ、すぐに朗らかな笑い声に変えた。当たり障りのない挨拶が背後で交わされる。
湯から出た肩口が冷えたような気がして、首を竦める。
「お隣失礼」
しばらくして、ケインが湯船に入ってきた。水中で泳ぐ尻尾を見下ろす。
「いやー、出先の湯っていうのも良いね」
「気持ちいいですよね。温泉を思い出します」
「お、エラキスにもそういう場所があるのかい?」
「いえ、少し離れたところです。同じ国内ではありますけど」
昔訪れた避暑地と、そこで湧く温泉について話す。皮膚病や赤脚病に効くという謂れがある名湯だった。リシアは、少なくとも後者には縁は無かったけど。
「皮膚病か」
「あかぎれにも効くとか。肌の病に悩まされる人は多いので、有名な場所なんです」
「へー、君らの肌にもそんな悩みが……みんなすべすべもちもちしてて、そういうのとは無縁だと思っていたけど」
少し考えるように目を泳がせ、ケインは呟く。
「いや、だからこそか。毛皮に羽毛、甲殻が無いから」
それを聞いて、リシアは目を丸くする。入浴前に考えていたことと、どことなく似通った言葉だった。
ケインからしたら、ドレイクの身体も「自分」とは違う。特徴的な姿をしているのだろう。
「セリアンスロープにも疥癬なんかはあるが、それにも効くのかな」
「ドレイクだけに効くってこともあまり無さそうですし、そうでなくとも良いところですよ。温泉を使った蒸し料理とか、鉱水とか」
「おー、そういうご当地料理もいいね」
誰かの腹が鳴った。
折よく、あるいは悪く、会話が途切れる。
「……朝ごはん、まだなんですか?」
アキラとケイン、どちらでもない声が尋ねる。
「はい。これからです」
アキラが返事をした。腹の虫が鳴いたのも、おそらくアキラなのだろう。
「今日は、蟹のはずです」
相手にとっては突拍子もないであろうアキラの発言に、冒険者は朗らかに返す。
「蟹!いいですね」
そのやり取りを聞いて昨日の交渉を思い出す。甲殻類のことをすっかり忘れていた。
「そうだった」
「どこで配給してくれるかな」
ケインと話す最中、とぷんとアキラが湯船に浸かる。
「アキラ、そういえば蟹のこと忘れてたよ」
「うん……」
夜色の瞳が、申し訳なさそうに瞬く。
「もう出る?」
「ううん、まだ温まってないでしょ」
「そうだそうだ、ちゃんと百数えるんだ」
リシアも昔誰かに言われたようなことを聞きながら、アキラは目を伏せて肩を沈める。水面の下で指が何かを数えるように陶板を叩いた。
ふと、背後を振り返る。
傷だらけの背中を湯が滑り落ちるのを見て、リシアはゆっくりと姿勢を戻した。
昨晩の、鍵盤琴の女が告げた言葉が水音ともに木霊した。




