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朝風呂(1)

 鍵盤琴を弾く。


 長年懇意にしている調律師は、今回も完璧な仕事をしてくれた。一分の狂いも無い音階に聞き惚れ、リシアは思わず歌を口ずさむ。まずは讃美歌。それから、牧歌的な民謡。喜劇の一節。


 小さな拍手が部屋の片隅で響く。


「素晴らしい、建国節の歌姫も夢じゃない」


 はにかむように微笑む。小さな卓を囲む男女が、そんなリシアの姿を見て会話を交わす。


「そんな、先生。リシアが歌姫に選ばれるなんて」

「冗談ではありません。彼女ならあの舞台に立てます。音感も、声の伸びも、表現力も、これほどの子は見たことがない」


 男の熱のこもった声が浴びせかけるように女に向けられる。褒められるのは、なんだって嬉しい。椅子に腰掛け、照れ隠しに足をふらつかせる。


「もっと経験を積みましょう。先日の、アルマンディン家御息女の誕生祝いのように……誰か、他にお知り合いは?勿論私も探しますとも」

「知り合いと言われましても、夫の伝手なら」


 そう告げて、はたと女は言葉を切る。一瞬引結ばれた唇が再び綻んだ。


「もう長いこと疎遠ですが、姉に相談してみます」

「貴女のお姉様というと」

「スペサルティン家の当主です」


 ああ、と感嘆の声があがる。


「スペサルティン卿が後ろ盾になってくれるのなら、これ以上有り難いことはありません!」

「まだわかりません。姉とは色々とありましたから……でも」


 女は音もなく席を立つ。


「きっと、リシアのためになるのでしょう?それなら、私、なんだって出来ます」


 衣擦れの音と共に影が落ちる。顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。


「お母様」


 たおやかな手が冷たく頬を覆う。


「リシア、一緒に頑張りましょうね」


 そう告げた女の顔は、黒く、暗く。




 は、と息を吐く。途端に体が思い出したように重さを増した。寝袋の中で呼吸を整え周囲を伺う。


「おはよう、起きたかい?」


 赤銅色の瞳が顔を覗き込んだ。一瞬身をすくめ、小さく頷く。


「おはようございます……」

「と言っても、明け方だけどね」


 上体を起こし、セリアンスロープは伸びをする。しなやかな動きを繰り返しながら囁いた。


「嫌な夢でも見てたのかな。うなされるようだったら、起こそうかと思ってたんだ」


 握り込んでいた指に気づく。力を抜いても、強張った体は形を保ったままだった。


「ごめんなさい、煩かったですか?」

「いやいや、静かだったよ。顔色や動きでわかるものさ、機微というのは」


 ケインの言う通り、あれは悪夢だったのかもしれない。生々しい光景が返り咲きそうになり、寝返りをうつ。


 人形のような寝顔が視界に入った。


 就寝前とまったく変わらない仰向けの姿勢で、アキラは規則正しく呼吸をしている。


 目が見開いた。


「おはよう」

「お、おはよう」


 即座に上体を起こし、挨拶を交わす。


 寝起きが良すぎる。


 動揺するリシアを横目に、アキラは寝袋から這い出た。壁に背を預けたままのフェアリーをちらりと見た後、セリアンスロープの方を向く。


「おはようございます」

「うーん、見習いたい覚醒の速さだ。おはよう」


 そう言いつつ、ケインは小物入れと布を手に取り纏め始める。出立の準備ではなく、貴重品のみを厳選しているようだ。


「昨日の、風呂の話は覚えてるかい」


 囁き声に目を輝かせる。


「はい」

「行く?」

「ぜひぜひ」

「アキラもどうだい」

「ご一緒させてください」


 ケインにならい、貴重品と布を抱える。アキラも即座に準備を始めた。


「ハロ」

「なに」

「ちょっと風呂入ってくる」

「ん……」


 準備をする間、ケインはもぞもぞと動く塊に声をかけていた。まだ半覚醒らしい返答に苦笑いを浮かべ、フェアリーの方を向く。


「ライサンダーもまだ寝てるか」


 声をかけられても、フェアリーは触角の端を動かすこともしない。傍目からはわからないが熟睡中なのだろう。


「横にならなくて大丈夫なんでしょうか」

「ああ、それはいつものことだ。なんでもフェアリーは、力を抜くと身体が固まるらしい。無理な姿勢に見えても本人は楽にしているとかなんとか」


 そんな構造まで違うのか。アキラと共にへえ、と声を漏らす。


 貴重品を抱え、足の踏み場もない広間を静かに歩く。流石に明け方ともなると飲み騒ぐ人間もいない。潰れたように倒れ伏しているか、大人しく寝息を立てているか。あるいは、リシアたちのようにそろそろと活動を始めているか。入り口付近で身支度を始めていた冒険者と会釈を交わし、受付の前に立つ。


「おはようございます。よく眠れましたか?」


 昨夜よりも年若い従業員が深々と頭を下げる。いくつか軽口を交わして、ケインは風呂について聞いた。


「ここは湯浴みは出来るのかな」

「あちらが浴場です。一時間後までは女性用に開放しております。番台が声をかけますから、時間は守ってくださいね」

「ああ」


 従業員が示したのは別棟へと繋がる扉だった。礼を告げて三人で赴く。


 戸を開くと、湿気を含んだ空気が纏わり付いた。目隠しの間仕切りの前に、皺くちゃの老婆が腰掛けている。


「んあ」


 小さく声をあげ、老婆は薄い耳を立てた。


 セリアンスロープだ。


「お婆さん、風呂に入っても?」


 ケインが身を屈めて尋ねる。こくりと老婆は頷いた。


「ええよ」

「よーし、ありがとう!風呂だ風呂」


 そう言うなりケインは尻尾を振り回して間仕切りを回り込む。


「ほら、君らも」

「はい」


 老婆に目礼をして、間仕切りの裏に回る。棚に籠の並んだ脱衣所の先には、扉を隔てているわけでもなく濛々と湯気の上がった浴場が続いていた。道理で湿気が多いわけだ。


 華やかな巻衣を脱ぎ、籠に押し込みながらセリアンスロープは笑う。


「一番風呂か?嬉しいね」


 布を手に浴槽端へと向かう。


 あまり見ないようにはしていたが、それでも、やはり種としてドレイクとは違うのだと改めてリシアは認識する。


 臍ってああいうのなんだ。


 髪を纏め上げながら自身の体を見下ろす。毛皮も羽毛も甲殻も無い、なんの特徴も無い身体だ。そんな身体の前面を布で隠し、陶板の敷き詰められた浴場へ足を踏み入れる。

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