休憩所(3)
讃美歌は好きだ。
調和を重視して合唱することもあったし、独唱もよく歌った。建国節の時にジオードで歌ったのも、この讃美歌だった。
慈悲と犠牲を讃える歌。エラキスやジオードを含めた周辺国の文化の基底にある「教え」をあらわす、聖なる調べだ。
その響きは遠く地下深くまでも、安らぎを届ける。
「あ、そこもう一回」
戻る。
ゆっくりと運指を見せると、女は首を傾げつつ手を伸ばした。先程の動きを辿々しく繰り返す。
「なるほどね」
もう一度、今度は原曲通りの速度で弾く。難関は乗り越えた。後は、女が元から弾けていた箇所の繰り返しだ。
「通しで弾いてみますか?」
「うん」
席を替わる。微かな深呼吸の後、女は最初の小節を奏で始めた。
なんだか、懐かしい気分になる。目を閉じ聴き入っていると、女は演奏をしながら話し始めた。
「そういえば、冒険者の卵なんだっけ」
「はい。学苑の迷宮科に所属しています」
「ふうん。大変ねえ、冒険者になるのにも勉強が必要だなんて」
転調。
「もしかして、碩学院の依頼でここに来たの?」
目を丸くする。
「そうです」
そう答えるも、女は運指に集中しているのか返答はない。讃美歌は教えたばかりの楽節に入った。
難なく、女は弾き切る。
「じゃ、良いこと教えたげる」
滑らかに白鍵を指が滑る。
「碩学院にも色んなとこがあるけど、数学科の依頼は受けない方がいいわ」
だんだん弱く。そう教えた通り、曲は終わりへと向かう。
「前線だから、よく碩学院の関係者が来るのよ。話を聞くと、みーんな数学科で、今にも死にそうな顔をしてる」
か細く最後の音が響く。
「遺物集めのために来てるんですって。そのために無茶をして、帰ってこない人ばっかり。一緒についていく冒険者も……依頼だから、しょうがないのかしら?ま、律儀な冒険者ばかりじゃないけど」
女は乾いた笑い声をあげる。裏腹に表情はどこか寂しげで、リシアは膝の上に置いた手を握り込む。
「ロンズデールって人。その人の指示で何人も死んでる。前線だけじゃない、よその迷宮でも有名」
一段と声を顰めて告げる。ロンズデール。その名前が、しっかりと記憶に残った。
「ついでにもう一つ教えちゃおっかな」
鍵盤をなぞっていた人差し指が、戸の外を指し示す。
「この階に、冒険者が一人いるんだけど」
「ああ……」
受付で見かけたドレイクを思い出し、頷く。話が早いとばかりに、女は唇を歪めた。
「あの女にも気をつけて。さっきも言ったけど、個室に泊まるのは広間から弾き出された奴ぐらいなの」
同業と一緒に居られないって意味。
道中マイロとの会話に覚えた微かな拒絶反応とは別に、真摯な注告であると感じた。答えあぐねて黙するリシアを横目に、女は息を吐く。
「そういうのって、他所にもいるんじゃないの?評判が悪いというか妙に殺気を振り撒いてるというか」
「どう……でしょう」
そう言いつつ、どこか腑に落ちる。
あれは、殺気なのか。あんな雰囲気を纏ったヒトを、リシアは他にも知っているような気がする。
「あ、もうこんな時間?」
鍵盤琴の上部に置いた時計を見上げ、女は甲高く声をあげる。
「子供は寝る時間ね。ま、付き合わせたの私なんだけど」
席を立ち、ひらひらと手を振る。
「それじゃ、おやすみ」
「ええ……」
連れ込まれた時と同様に、唐突に追い立てられる。廊下に出された背中を、扉を閉める音が見送る。
「ありがとね」
付け加えるように細く扉が開き、そう告げられた。何事か返事をしようとして、すぐに扉に阻まれる。
なんだったんだ、いったい。
忘れていた疲労感が押し寄せてくる。ただ、気分転換にはなった。久しぶりに動かした指をもう一度空で曲げ伸ばし、一人口ずさむ。
気配を感じた。
背後の部屋からではない。突き当たりの部屋をリシアは見つめる。
あの「冒険者」と目が合った。空気を入れ替えるためか扉を半分開け放し、寝台の端に腰掛けている。本を開いて持ちながら、視線はこちらを真っ直ぐに見据えている。
怖いほどの真顔はすぐに、申し訳なさそうな苦笑いに変わった。女の言葉とは真逆の、人畜無害と言ってもよい気弱な笑みだった。
ぺこりと、冒険者は会釈をする。
つられてリシアも会釈を返す。
さっきの話が聞こえていたのかもしれない。かえって申し訳なく思い、リシアは階段を早足で降りる。
降りきった先に、影が過った。
「リシア」
「わ!」
情けない声をあげ思わず立ち止まる。夜色の影は不安げに、リシアの顔を覗き込んだ。
「良かった。外に探しに行こうかと」
「あー……ごめん、ちょっと二階が気になって」
笑いながらそう告げて、アキラの表情に笑顔を引っ込める。
「ごめん、本当に」
アキラの目から少しだけ、不安の色が抜け落ちた。広間を指差す。
「戻ろっか」
「うん」
「もしかして、ケインさん達も心配してる?」
「ううん、よく寝てる」
少しだけ安堵するも、すぐに先程の表情が脳裏を過ぎる。
話す相手もいないまま、不安にさせてしまった。
悪いことをしたと思いつつ、リシアはアキラと共に、いまだ賑やかな広間に再び戻った。




