休憩所(2)
吊り手水で石鹸の泡を洗い落とす。小さな灯りが照らす空間は、思いの外綺麗だった。
「石鹸まであるし」
学苑並みの設備だと考えると、前線基地とはいえかなり金がかけられている。あるいは、だからこそなのだろうか。
手巾で水気を拭き取り、手洗場を出る。薄暗い廊下の先には灯りの点る受付台、反対方向には二階へと続く階段があった。
個室の代金はどのくらいなのだろうか。階段を睨みながらリシアは考える。異様に安い広間の宿泊代を鑑みると、学生でも十分出せる金額かもしれない。
少し逡巡し、受付に向かう。台の向こうで筆を走らせていた従業員が顔を上げ、会釈をした。
「あの」
「はい。何かお困りでしょうか」
「上のお部屋って空いてますか?」
一瞬、従業員は強張った。すぐさま口の端を上げ頷く。
「申し訳ございません、二階は満室です」
「そうなんですか」
残念、と思いつつ礼を告げようとする。
音もなく、傍に誰かが立った。
「すみません、いつもの部屋を」
朗らかな声音の言葉と共に、赤紙幣が数枚台に乗る。先程の比ではなく従業員は表情を強張らせ、紙幣を手に取った。
「いつもありがとうございます」
従業員の顔、渡された鍵に続いて「客」をリシアは見上げる。
ドレイクの女性だった。肩にかかるくらいの髪に厚手の衣服。言葉に困るほど、特徴の無い姿をしている。
だが彼女が横に立った瞬間、確かに胸騒ぎが起きた。
満室みたいですよ、などと言えるはずもなく、リシアは階段を上っていくドレイクの後ろ姿を見送る。
「……その、申し訳ございません」
深々と従業員は頭を下げる。なるほど、常連がいるわけか。苦笑いを浮かべつつ踵を返す。
広間の喧騒に混じって、微かな鍵盤琴の音が聞こえた。
反射的にリシアは耳を澄ませる。広間に鍵盤琴は無かった。近くの酒場かと思ったが、そう遠くから聞こえているわけでもない。
再び事務作業を始めた従業員を一瞥して、二階へと向かう。案の定、階段を上るごとに音は近づいた。
二階の廊下を見渡す。いくつか並んだ扉のうち、灯りが点っているのは二部屋だけだった。一つは先程のドレイクだとして、残る部屋におそらく鍵盤琴を置いているのだろう。しばらく廊下でリシアは立ち尽くす。
再び鍵盤琴の音が響く。今度は曲の体を成していた。最も耳にする機会の多い讃美歌の、ある楽節だった。それを繰り返し、繰り返し弾いている。
次の音がわからないのだろうか。
音の出どころである扉の前に立ち、気を揉む。
音が止んだ。
「ちょっと」
声をあげる間もなく扉が開く。僅かな灯りと光を透かした薄布が、扉の隙間から溢れた。
「用があるなら……」
おおよそ地底で咲くとは思えない花の香りが漂う。薄暗闇でもはっきりとわかる化粧の、派手な美人が顔を覗かせた。色の乗った瞼が見開く。
「今ってそういう格好が流行ってるの?」
「え」
「悪いけど、ここは全部埋まってるの。部屋を使いたいなら他所をあたって。それとも……」
白い手が伸びてくる。色づいた爪がリシアの頬を撫でた。突然の出来事に体が一層強張る。
「やだ、粉も付いてない。もしかして本当に学生?」
「そうです」
「はぁ……稼ぎが悪くてここに来たとも思えないし、教えてあげる」
下唇を歪めながら、女は告げる。
「宿の個室は、広間で出来ないことをする奴か広間から弾き出された奴が泊まるの」
数拍考える。
顔に血が上った。
「す、すみません……」
「まったく。てっきりあの女の連れか何かかと思ったわ」
廊下の端の扉を一瞥し、女は舌打ちをする。
「で、ここで『お仕事』をしたいわけ?」
「ち、違います。その、鍵盤琴が気になって」
「琴?」
女は室内に視線を移す。何か考え込むように眉を顰め、問いかけた。
「もしかして、弾けるの」
「さっきの曲なら多少は」
「ふーん」
たっぷりと言葉を伸ばした後微かに頷き、女は戸を開け放す。アムネリスもかくやという格好に思わず目を覆う。
「入って」
「えっ、な、なんで」
「弾けるんでしょ。続きを教えて」
長い爪が食い込まないよう多少の配慮と共に腕を引かれる。戸を開け放したまま、女は簡素な椅子の前にリシアを放り出した。
こんな状態だというのに、リシアは鍵盤琴に視線を移す。年季は入っているが、地下にも関わらず黴やヒビは見当たらない。艶やかな黒鍵に手が伸びそうになって、女の方を見る。
「ここまでは出来るのよねー」
隣に立った女は鍵盤に指を下ろす。階下で聴いた讃美歌の一楽節が手早く奏でられる。そして先程と同様、途中で演奏は止まった。
「次がわかんない」
戯けるように女はひらひらと手を振る。鍵盤琴の周りを眺め、リシアは口を開いた。
「楽譜は無いんですか?」
「楽譜?そういえば、無いかも」
「じゃあ、もしかして見たり聴いたりして覚えたんですか?」
「うん。昔の客がよく弾いてたの」
歌を学ぶ過程で、鍵盤琴もある程度は嗜んだ。耳で覚えるのはリシアも得意だが、彼女は稽古でもなく傍から見聞きして覚えたのだろう。
それなら、残りの小節も苦は無いはずだ。
何事か用件を作って逃げ出すという考えも抜け落ち、リシアは椅子にかける。
「先程の続きから、ですね」
そう尋ねると、女は頷いてリシアの指先に視線を落とした。




