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解れる

 授業の内容が頭に入らない。


 講師の言葉と板書をそっくりそのまま書き写しながら、リシアは放課後の予定を幾度も反復する。


 アキラと合流する。

 一度準備を見直す。

 駅に向かう。

 夜干舎と合流する。

 依頼をこなす。


 これで良いはずだ。昨日夜干舎と打ち合わせもしたのだ。計画に問題はない。


 それはそれとして緊張はする。


 硬筆に染みそうなほどの汗に気づいて、素知らぬ顔で筆を握り直す。講義終了まであとどれくらいだろうか。時計を見るのも恐ろしい。古語の綴りを無意味に書き記して気を紛らわす。


 いつもは眠気を呼ぶ穏やかな朗読の声も、今は効力を発揮しない代わりに鼓膜に引っ掛かることもない。


 暫く紙と黒板を目で往復した後、無慈悲にも鐘の音が響いた。


「それではまた次回」


 古語の講師がそう告げた途端、緊張感が揺らいで最高潮に達する。刻一刻と近づく冒険にどう向き合えばいいのかわからない。


 宿泊っていつ振りだっけ。


 近似の体験を思い出そうと躍起になる。確かジオードに行った時だ。あの時は招待されて向かったから部屋も食事も旅程も任せきりだった。それ以前の宿泊もリシアが準備をすることは何も無かった。


 アキラに対しては迷宮科の生徒として知識があるように振る舞っているけど、実のところ経験の少なさはリシアもアキラと似たようなものだ。


 お互い様だと思えば、ほんの少しは緊張もおさまる。


 深呼吸代わりに教科書を閉じる。宿泊のことで悩むのはこれで終わり。やるしかないじゃないか。


「リシア」


 耳元で可憐な声が吹き抜ける。間抜けな声を出して、リシアは声の主を見上げた。


「うわっ」

「ごめんなさい、驚かせちゃった?」


 事件以来、リシアに話しかけてくる生徒は少ない。そんな中何事もなかったかのように接するのは、信じ難いことにかつての親友だけだった。


 もっとも、大体の会話はリシアの心中を掻き乱すだけなのだが。


「なに、マイカ」


 警戒心を露わに尋ねる。聖女は傍らに立ち、可愛らしく小首を傾げた。


「授業中、顔色が悪かったから心配で」


 顔に出るほどだったのか。

 憮然として頬をさする。その様を見て、聖女は愛らしく微笑んだ。


「ふふ、やっぱり心配事があるのね」


 目が合う。


 何かを隠しているわけでもないのに見透かされているような気がして、目を逸らす。


「前に話したでしょう、遠出の依頼。今日から行くの」


 言う必要もないのだろうが、黙っていることでもない。依頼の件について再度話すと、マイカは少しだけ顔色を変えた。


「今日から」

「そう」

「……そうなの」


 かくんと首が倒れる。先程と同じ「小首を傾げる」仕草のはずなのに、糸が切れたような不気味な挙動だった。


「心配?」


 嫌味混じりに尋ねる。


 マイカの目にとろりとした光が宿ったことに気がついて、安易な問いを後悔した。


 神経を擦り減らすような返答を覚悟する。


「勿論。迷宮では何があってもおかしくはないもの。いえ、迷宮でなくても危険は多いけど」


 心の底から心配してくれているのだろう。それはわかる。ただ、阻むようにも聞こえるだけだ。


「もしリシアに何かあったら、私……悲しい」


 悲しい?


 呆気に取られるリシアの視線に合わせるように、マイカは少し屈み込んだ。


「気をつけてね。怖かったら、すぐに逃げ帰ってくること」


 冷えた感触が指を覆った。


 反射的に手を引く。所在を無くしたマイカの手が、僅かな間空を彷徨って机の端に落ち着く。


「スペサルティン卿もきっと心配なさってるわ」


 体が強張る。


「突然、何」


 存外冷たい声が出る。


「スペサルティン家の名まで出して、何が言いたいの」

「何って、心配する人は大勢いるってことを」

「家のことにまで構わないで」


 声を抑えるあまり、熱気がこもる。マイカは悲しげに目を伏せた。


「……向こうの名を出すのはやめてほしい。きっと迷惑だから」


 自身の言葉がちくちくと胸の内に刺さる。こんな些細なことで罪悪感を覚える道理など無いはずなのに。


 気まずさと共に生じた沈黙が、戸を開く音に掻き消される。


 教壇に立った講師に気を取られる。その瞬間、聖女は別れの言葉もなく花々を移ろう蝶のように視界から去って行った。


 危惧通り、酷く消耗してしまった。


 息をつく。


 視線を感じて隣の席に目を向ける。慌てて顔の向きを変えた男子生徒の横顔を見て、二度目のため息を噛み潰す。


 女生徒のやり取りに、彼はどのような思いで聞き耳を立てていたのだろう。


 余計なお世話だと、少しぐらいはリシアと同じ感想を抱きはしたのだろうか。


 姿勢を正し、前方の講師へと顔を向ける。


 あと数分で終業だ。


 その後は余計なことを考える暇などない。


 ふと、暗澹としてはいるが緊張はしていないことに気がつく。


 「マイカのお陰」などという言葉が脳裏をよぎって、一層リシアは憮然とした。

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