負目
既視感を振り払った後、スペサルティンの名を聞いてゾーイは思わず背筋を伸ばす。「五大家」の名に慄いたわけではない。まるで何の確執も無いかの様に彼の家の名を出したマイカの厚顔ぶりに面食らったのだ。
「スペサルティン卿」
おうむ返しにそう告げると、マイカは微笑んだ。
「はい」
脳裏で懸命にこれまで収集した情報を思い返す。スペサルティンとグロッシュラーの現在の関係。そんなもの、あったか。「共通の知り合い」とやらを介したとしても、特筆出来るような良好な付き合いは両家には無い。むしろ先のグロッシュラー排斥でスペサルティンは大いに糾弾した方だ。既に過去の事……とも単純に言い辛い。
ただ、「共通の知り合い」は見当がついた。
「スフェーンか」
敢えて家名のみを出す。途端、少女は先程と比べ物にならないほどに瞳を輝かせた。
「その通りです!本当に何でもご存知なんですね」
嫌味にすら聞こえる褒め言葉に態度を変えることもなく、ゾーイは手帳に両家の名を書き留める。
この頃シラーが執心している第六班の班長とスペサルティン卿は姪と伯母の関係にあたる。別段秘匿されているような情報でもない。貴族内で知らぬ者はいないだろう。
そして、両家の婚姻に纏わる一悶着もまた誰もが知るところだ。
リシアの母はスペサルティン家の庶子だ。スフェーン子爵と結ばれ、一人娘をもうけ、ある事件でスフェーン家に著しく傷を残したまま去ってしまった。
現在、彼女は両家共に存在しなかったかのような扱いを受けていると聞く。
そんな縁を頼ろうと言うのか。
いや、そもそも。
スフェーン家の令嬢とマイカの間に起きた騒動はゾーイもよく知っている。だと言うのに、この少女は平然と元班長を足掛かりに使おうとし、あまつさえそれをゾーイに臆面もなく話している。
普通なら、あの騒動を「絶縁」と取る。それでもなおマイカはリシアと関わろうとする。
何か致命的な齟齬が、彼女と他者の間にあるのだろう。
「勝算は」
あるはずもないが尋ねる。
「勿論、あります」
マイカは断言する。眩暈がした。
「彼女の心を動かすことができます」
「……他に頼れそうな人は」
「居ますが、スペサルティン卿を狙い撃ちにするのが一番かと」
そこまで言われると、真面目に話も聞いてみたくなる。
弱みでも握っているのだろうか。それはそれで気になるので、ゾーイは後輩に尋ねた。
「こだわる理由はあるのか」
「とても優しい方でしょう?」
とてもやさしい。
ゾーイの知るスペサルティン卿からは隔離した言葉が飛び出る。元々愛想が良くはない顔つきだと言われるが、一層表情が消えていることだろう。
心優しい人間に「女公爵」が務まるか。彼女がその座に収まるまでの数々の事件を思い出し、内心首を捻る。父を引き摺り落とし婿も養子も不要と言い捨てた気性、他者を捩じ伏せる舌弁と風格の前では、ユークレース家のような有力貴族でも萎縮せざるを得ない。
そんな人間に「とても優しい」とは、どこを見た感想なのか。
それより何より、彼女の立ち位置はゾーイもよく知っている。
「迷宮科廃止派と考えるなら、確かに優しいかもしれないな」
学苑は冒険者風情を育てる場所ではないと公言する貴族は少なくない。スペサルティン卿は公言はしないまでも、五大家の慣例である学苑への支援から手を引き、迷宮科の設立者である現王と対立を深めている。
はっきり言って、後ろ盾になどなってくれそうにない。ゾーイ達のような一介の学生が相手取るには強敵過ぎる。
「マイカ、他を当たろう」
「私に任せてください」
埒が開かない。
「……君以外の意見も必要そうだ。一度班長に」
「スペサルティン家は、スフェーン家に負目があります」
鈴を転がすような声が、胸元で聞こえた。
大きな瞳にゾーイの特徴の無い顔が映る。
整った顔立ちが一層非人間的に見えて、思わずゾーイは後ずさった。
「リシア達を第六班に入れる算段なのでしょう?」
黙する。
副班長は本気にしているが、当の班長がどう考えているか。以前の同行以来進展の無い話だ。
それを蒸し返されたことにどう返答すべきか、ゾーイは言いあぐねる。
そもそもゾーイの見立てでは、シラーが執心しているのはリシアではなく普通科の女学生のほうだ。リシアを加入させたとしても女学生と第六班を噛み合わせる歯車にしかならない。スフェーン家に負目があるというのなら、どう見積もっても飼い殺しにしかならないリシアを見て「とても優しい」女公爵はどう思うのだろう。
今のシラーが率いる第六班の構造を、女公爵が見抜けないはずはない。
「スフェーンが人質か?」
この聖女とまで呼ばれる女学生が、そんな浅はかで悪どいことを考えるはずが無い。
一瞬そんな考えが脳裏をよぎって、ゾーイは愕然とする。
あてられた。
そんな先輩をよそに、マイカはゆっくりと口を開く。
「リシアの名を出せば、スペサルティン卿はこちらに着きます」
勝算はあるのです。
言い含めるようにそう呟くマイカは、珍しく無表情だった。




