関門
昨晩は随分と長居をしてしまった。
あくびを噛み殺しながら、リシアは職員室の戸を叩く。
アキラの荷造りは勿論、アガタとの会話にも花が咲いた。見た目通りと言うべきか、美容には一家言あるらしいアガタの話は大変興味深いものだった。いつもより癖のおさまった髪を緩く指に絡める。就寝前の手入れの際に、早速アガタから教わった手法を取り入れてみたのだ。
「入りなさい」
扉の向こうから返ってきた言葉に、浮き足だった気持ちが引き締まる。今日の行く末によっては、昨日の準備も全て無駄になる可能性がある。不信感の元にならぬよう声を張る。
「失礼します」
入室する。
朝日の差し込む職員室には既に数人の講師がいた。迷宮科講師と、その向いの席にかけた数学講師に会釈をする。
机の上に朝食らしきパンを置いたまま、迷宮科講師は体の向きを変えた。
「おはよう」
「おはようございます」
いつも通りの事務的な挨拶に応じる。すかさず書類を差し出した。
「この依頼を受けます。行程表も付けました」
目を細め、講師は紙束を受け取る。いつものように時間をかけて頁をめくるたび表情が険しくなるのを見て、鼓動の音が大きく耳に響く。
シラーの言葉が脳裏を過った。
「これまでの依頼は収集と討伐が主だったか」
「はい。ですから、他の依頼も受けようと」
「誰と行くんだ」
「……以前話した生徒とです」
講師は暫し口を閉ざす。
何を考えているのか、勘ぐりだけが働いてつい口を開く。
「今の力量を鑑みて決めました」
「わかっている」
返ってきた言葉に二の句が告げなくなる。目を泳がせることもできずに手元を見つめていると、再び講師は口を開いた。
「段階を進めるのに申し分のない依頼だ」
先程とはまた別の思考回路で、言葉を失う。つまりどういう意味か。
数拍置いて、やっと声を発する。
「この依頼を受けても問題ない、ということでしょうか」
「そうだ。無論、心してかかりなさい」
頬が熱くなる。
「は、はい!」
てっきり。
シラーと同じようなことを言われると思っていた。
心中の何処かで、否定されることを諦観していた。
その諦観が「考えすぎ」であるとも思わない。講師は単に合理的な判断を下しただけなのだろう。それでも、嬉しかった。
「心構えは何度も確認するものではないだろうが、それでも、人一倍仲間に気をかけないといけない。忘れないように」
「勿論、です」
目の前に印を押された書類が差し出される。それを受け取り、深々と頭を下げた。
「頑張ります……?いえ、ありがとうございます」
頭に熱が籠ったまま職員室を後にする。
廊下を歩きながら、手にした書類を見下ろす。確かに、許可された。まだ迷宮にも入っていない、第一関門に過ぎない行程だというのに、峠は越えたとでも言うように疲れが襲ってきた。
以前の言葉を信じてくれている。そんな講師を、リシアを、裏切ってはならない。
決意を新たに教室へと向かう。開け放された戸から、一歩足を踏み入れる。
窓際で一人、聖女が立っていた。
風が吹き込み、蜂蜜色の髪を靡かせる。
「リシア」
何の警戒もせずに入ってきた幼馴染を見て聖女は微笑む。
「おはよう」
「……おはよう」
挨拶を返し、自身の席へと向かう。机の間を進むリシアに、聖女は静かに歩み寄った。
「依頼?アンナベルグ先生の所に行ったのかしら」
肩口で囁く。びくりと立ち止まった隙に、マイカは書類に目を向けた。
「遠出なのね。調整と相談をしているの?」
「もう調整は終わった。許可も貰ってる」
隠すことでもない。率直に告げると、マイカは目を見開いた。その様がどこかシラーに似ていて、リシアは違和感を覚える。
「許可まで?凄い、一年生で一番乗りじゃないかしら、遠征に行くのは」
「遠征になるのかな」
「立派な遠征よ!そう、アンナベルグ先生、許可を出したの」
一転、聖女の声と表情が沈みゆく。
「第六班の遠征は、まだ調整中なのに」
あ、とつい気不味げな声が漏れる。
そうだったのか。まさか、シラーの態度にはそういった事情もあったのだろうか。あの言葉の裏に隠れていたものを垣間見たような気がして、リシアは居心地悪く書類を背後に隠す。
「班員の選抜や行程表、予算。話し合うことは沢山あるみたい。でも、迷宮探索では準備が命を守る事に繋がるから、当然ね」
聖女は小首を傾げる。
「リシア達は、大丈夫?」
むっとする。
「私だってちゃんと考えてる」
思いの外声が荒くなる。何とか抑え込んだが、滲んだ怒気は隠せなかったようだ。
しゅんとした様子のマイカが、小声で呟く。
「ごめんなさい。心配で」
心配。
本心とも思えない言葉にリシアは呆れて言葉を失う。そんな元友人の前で、マイカは健気な笑顔を浮かべた。
「何だか、無理をしているんじゃないかって」
そうやって。
「アキラさんも居るし、もし不慣れなことが原因でまた怪我をしたら」
リシアの決意も知らないくせに。
「マイカには関係ないよ」
言い捨ててしまう。
健気な微笑みが冷えて、ぎこちない口元が歪む。
「……そんなことはないわ。だって」
親友だもの。
花のひとひらのような唇から溢れた言葉を、鐘の音がかき消した。




