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碩学院にて

 戸を叩き、生返事を確認して入室する。隙間から漏れ出た煙に呆れ返って、そのまま大きく開け放した。


「ちょっと教授、煙い。蒸気機関動かしてるんじゃないんだから」


 白く煙った部屋の中で、工学教授はぼんやりと紫煙を燻らせている。ふっと一際色濃く煙を吐き、一言。


「燻蒸だ燻蒸」


 悪びれもしない師にため息を返してアガタは窓も開け放す。風が抜けて煙を幾らか薄めた。


 火事か何かと勘違いされないかと危惧しつつ、教授の机に書類を置く。


「調査の行程と許可証です。念の為」

「ん」


 ゆっくりとした動きで居住まいを正し、シノブは書類をめくる。片手の指に挟んだ煙草から灰がこぼれ落ちないか冷や冷やしながら、返事を待つ。


「悪いな、本来なら私が行くはずなのに」

「どうしても外せないんでしょう?それに、私の研究対象でもあるんだから寧ろ有り難く行かせてもらうわ」

「ほう。なら報告を楽しみにしてるぞ」


 紙の縁を揃え、シノブはアガタに書類を返す。


「調査団の代表には私から話をしておいた。悪いようにはしないだろう」

「助かります」

「あと、金を使うんなら領収書は取っておけ。宿なら私の家を使えばいいものを」

「そういう訳にはいかないわ。確かに私はこんなんだけど、アキラも年頃の女の子よ」


 気にするに違いない。そう告げると、シノブは肩をすくめた。


「そういうもんか」


 今度はアガタが肩をすくめる。こんなことを言う彼女がどのような「年頃の女の子」だったかは大体想像がつく。


「明日の朝一でエラキスに向かうわ」

「そうか。今日はさっさと休めよ」

「そうさせてもらうわ。ああでも、キリ良く終わらせられそうなのがいくつかあるから……」


 そう言いながら研究室を見渡す。積りに積もった灰皿の片付けは教授自身にやってもらうとして、机の真ん中に放り出された穿孔紙に目をつけた。


「これ、解析機関に?」


 アガタの問いにシノブは穿孔紙を一瞥する。咥えていた煙草を灰皿に置き、勢いよく席を立つ。


「忘れていた。試さなければ」

「ちょっと、火の始末」

「お前も付き合え」

「はいはい」


 結局火の始末まで行う。アガタを後目に外套を羽織る師を見て、助手はため息をついた。碩学院から離れている間に研究棟が燃えてしまわないか不安だ。


 穿孔紙を手に機関棟へと向かう。研究棟を出て、万年曇天の空を見上げる。


「向こうは晴れてるかしら」

「今の時期は晴天が多い」

「じゃあ久しぶりに綺麗なお空と空気を楽しめるわ」

「結局地下に行くだろうに」


 曇天が多いのは気候のためだけではない。蒸気の要塞とも称される碩学院では常に黒煙が立ち上る。煙害を抑えるためにシノブ率いる研究室も幾らか改善案を出しているが、全てが反映されているとは言い難い。


 体調不良を訴える学徒も多い。アガタも碩学院に来てから咳き込むことが多くなった。エラキスの空気が恋しいというのは事実だ。


「教授は平気なの、煙」

「平気ではない。一応気は使ってる」


 そう言いながら外套に縫い付けられた頭巾を被る。鰓を守っているのだろう。真似るようにアガタも襟で口元を覆った。


 広大な碩学院敷地の一角、濛々と煙を上げる機関棟に辿り着く。扉をシノブに代わって開けると、熱気と騒音が噴き出た。


「ここ、開け放した方が絶対にいいぞ」


 挨拶がわりの言葉に受付の機関手が力無く笑う。


「情報の管理もありまして」

「お前がその状態だと強奪も簡単だ。改良が進まないせいでもあるが」


 歯車の城……解析機関そのものに足を踏み入れる。今も何かを処理しているのだろう、忙しなく動く機関を見上げながら受付へ向かう。


「順番待ちはどれくらいだ」

「五十四件です」

「ちょっと紛れ込ませられないか」

「駄目です」

「……保守点検だと思えば」

「駄目です」


 攻防の末大人しくシノブは順番待ちをすることにした。穿孔紙を差し出しながら幾つか指示を出す。


「計算はこれを使ってくれ」

「了解しました」


 穿孔紙を受け取り、即座に機関手は怪訝な顔をする。


「これぐらいなら私に任せてくれても」

「そうはいかん。保守点検だからな」


 腑に落ちない様子で元計算手は頷く。彼女も、そしてシノブも複雑な思いだろう。


「処理時間も計測しますね。終わったらお知らせします」

「ありがとう」


 礼を告げてシノブは踵を返す。夜色の瞳が不機嫌そうに、一点を見つめて細まった。


「おお、カルセドニー教授!」


 つられてアガタも入口の方を向いた途端、底抜けに明るい声が響いた。大仰に両手を広げた老紳士が機関内に踏み入る。その後を何人か研究生が着いてくるのを見て、思わずアガタは端に寄る。ただでさえ狭い機関内の人口密度が高まり、息苦しさすら覚える。


「涼しくなったんじゃないか、ここ」


 辺りを見回しながら老紳士は告げる。


「少しはいじったからな」

「おお、そうか、やはり君の仕業か!今でも手を加えてくれているとは有り難い。勿論私も思い入れはあるんだが、今は他の研究が立て込んでてね」


 老紳士も穿孔紙を差し出す。機関手が受け取った途端、再び口を開く。


「君も最近は迷宮に熱を上げているようじゃないか。炉の話、耳にしたとも。是非私に」

「総務を通してくれ」


 シノブの即答を聞いて、老紳士は笑う。


「いやあ相変わらずだ。だが、まあしょうがない。研究で使う分はこちらで手に入れるとも。今も一人大陸の迷宮に向かわせていてね。そろそろ戻ってくるかと」

「教授」


 傍らの研究生が囁く。


「三日前に遺品が」


 僅かな間の後、老紳士は手を掲げ人差し指を立てる。


「そうだった。ご家族に便りを出すように」

「はい」


 一転して穏やかに微笑む。


「彼らのためにも邁進しなければ」


 悪意は微塵も感じ取れない。


 アガタは腕を組む。熱気の中でも今のは流石に肝が冷えた。


「しかしこうも人手が減ると……そうだ、君、アガタ君だったか。こっちに鞍替えしないかい」


 唐突に話を振られ、必死でアガタは愛想笑いを返す。


「あらあ、嬉しいお誘いですけど、私はカルセドニー教授に着いていくと決めているので」


 小首を傾げながら断る。途端、興味を失ったように老紳士はシノブへ向き直った。少しだけ腰を曲げ、目線を合わせる。


「まだ形にはなっていないが、報告を楽しみにしていてくれ。勿論今からでも語り合いたいのだがね」

「査読ぐらいはしてやる」


 シノブの言葉を聞いて、老紳士は何度目とも知れない笑い声をあげた。


「そうか!きっと驚くぞ!」


 くるりと軽妙に振り返り、機関棟から立ち去る老紳士を研究生が追う。妙な静けさの中、アガタの袖をシノブが突いた。


「私の研究室で良かっただろ」

「自分で言うの?まあ、気遣ってくれるだけましだろうし……勿論私も覚悟はしてるけどぉ」


 まだ寒気は引かない。シノブが言う通り、彼女はまだ温情な方なのだろう。調査に赴く弟子を気にはかけてくれるのだ。


 だが先程の老紳士の言動からは、そのような情は一切感じ取れなかった。


「ロンズデール教授、炉にご執心とは聞いてたけど、あれは流石に怖いわ」

「数学科も委員会も何をしてるんだ。あれを放っておくとは」


 ぶつぶつと教授は呟く。確か老紳士……ロンズデール教授とは同期だったはずだ。だからこそ、院内に一派閥を作るような碩学相手に物怖じせず発言できるのだろう。


「煙草吸いたい」


 この世の終わりのようなため息の後、教授は一言こぼした。機関手にもう一度声をかけて、いそいそと解析機関を後にする。急いではいても、ゆうに追いつける歩幅だ。難なく隣についてアガタは告げる。


「私が死んだら家族に連絡してね」

「馬鹿言え、生きて戻ってこい」


 そんなやり取りをして、教授と助手は研究棟へと戻った。

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