早朝
王府が発行した湖周辺の地図と、先日探索を行った際に書き留めた覚え書きを見比べる。
紙に丁寧に写し取った湖の地図に小迷宮を落とし込み、細かな注意点を書き添える。壁画、水没した通路、植生……。
作業がひと段落ついたところで、シラーは伸びをした。途端、昨日ヒドラに付けられた左腕のミミズ腫れが疼いた。班員が即座に手当をしてくれたが、暫くは痕が残るだろう。
自身の未熟さを示す、忌々しい傷だ。シラーは小さく舌打ちをする。
「……よ」
静かに隣の椅子が引かれ、誰かが腰掛けた。寝惚け眼で振り向くと、よく見知った顔がそこにあった。
「おはよう、副班長。珍しいね。朝早いのも図書館に来るのも」
普段は遅刻魔といっても差し支えない彼女である。それがこうやって、早朝の図書館にやって来たのは何か訳があるのだろう。
「あー……うん」
シラーの軽口に暴言を返すでもなく、副班長は気の無い返事をする。その様子を見ながら、シラーは口元を覆い隠し薄笑いを浮かべる。
彼女がやって来た理由は、何となく察する事が出来る。
「悪かったよ、昨日は」
暫く黙り込んで、やっと副班長は口を開いた。
「油断した」
「やっぱりその事?」
「やっぱりって何だよ……怪我までさせてさ。ゾーイが薬持ってたから良かったけど」
口を尖らせ、俯く。
「次は庇ったりしなくていいからな。一応、前に出てあんたらを守るのがアタシの役目なわけだし」
「副班長らしくないな。『次』があるのかい」
苦笑まじりのシラーの言葉に、副班長は虚を突かれたような顔をする。眉尻が下がり、「悪い」と呟いた。
「次があっちゃいけねーな。安心しろ、もう奇襲なんて喰らわねえ」
「それでこそ副班長だ」
ミミズ腫れを隠すように、捲り上げていたシャツの袖を下ろした。椅子の背にかけていた迷宮科仕様の上衣を取り、羽織る。
「怪我は、痛まないか?」
「このぐらいの怪我、迷宮に潜ってたら注意してても出来る。気にしないでくれ」
それに、とシラーは続ける。
「最良の判断だったと思ってる。女性の顔にミミズ腫れを残すわけにはいかないだろう」
歯の浮くような台詞に、副班長は多くの女性のように頬を染めるわけでもなく、只々訝しげな顔をした。
「よくそんな鳥肌が立つような事言えるな。アタシは何もやらねーぞ」
くつくつとシラーは笑う。いつも通りの反応だ。
「まあなんだ、いつも通りだし元気みたいだな。心配して損した」
「そこまで言う事ないじゃないか」
地図を丁寧に折り畳み、筆記具を片付ける。
「嬉しかったよ。僕の事を心配してくれるのは、君ぐらいだ」
副班長の表情に、妙なものが過ったのをシラーは感じた。
おそらく、憐れみなどと名付けられる感情だろう。
「……それは、違うと思うぞ」
嗜めるような言葉だった。いつもの副班長とは違う声音に、シラーは笑みを浮かべる。
笑みを浮かべるような場面ではない事はわかっている。
それでも、シラーは笑う事しか出来ない。
「そろそろ始業だ。教室に行こう」
「おう」
それ以上、副班長も言及はしなかった。シラーと副班長は席を立つ。
「……あ、先輩。そろそろ講義が始まっちゃいますよ」
「もうそんな時間か。続きは、昼休みにでもやろうか」
「はい」
立ち並ぶ書架の間から、一組の男女が現れる。第六班の採集組をまとめてくれている男子生徒と、最近探索組に加入した女子生徒だった。少女の零れ落ちそうなほど大きな瞳が、シラーと副班長の姿を捉える。
「あ、班長! おはようございます」
慌てた様子で、女子生徒は深々と礼をする。シラーは軽く会釈を返す。
「おはよう、マイカにフリーデル」
「よお」
「やあ班長。副班長も」
菌類の図鑑を数冊小脇に抱えたフリーデルが、軽く手を挙げて挨拶を返した。
少し違和感を覚えて、シラーは言葉を続ける。
「何か調べ物かな」
「ああ。ちょっと依頼に手こずってて」
フリーデルは分厚い図鑑を掲げる。
「ハチノスタケを明日までに三十本納品しなきゃいけないんだけど……どこも本職に取り尽くされたみたいで、全然見つからないんだ」
「どんな所に生えるか、調べてるんです」
マイカは哀しげな面持ちだ。
「すみません、期限まで時間がないのに……」
「時期が悪かったんだ。まあ、集まらなければ依頼を破棄すればいいだけだし」
「フリーデル」
シラーの声が、閑静な図書館に響く。
「依頼の破棄なんて、あってはならない事だよ」
「……でも、集められそうにないし……時には手を引くことも大事だろ?」
「受領前ならまだしも、既に手を付けたものから手を引くのは不作法だ。僕も迂闊だったが……」
フリーデルの顔が不満に歪む。その横で、今にも涙を零しそうな表情のマイカが、悲痛な声を上げた。
「フリーデル先輩を、責めないでください……私も一緒に探しますから」
もじもじと両手を握り合わせながらマイカは呟く。その姿を見て、フリーデルの顔から険が取れてゆく。
「マイカ……ありがとう」
「他にキノコが取れそうなところは、第四通路かな。今地図で目処を」
「大丈夫だ。班長の手は煩わせない」
地図を取り出そうとしたシラーを、フリーデルは言葉で制した。
「班長は大事な探索班の仕事があるんだろ?それに集中してくれ」
棘を含んだ声音だった。シラーは少し黙り込み、すぐに笑みを浮かべて「失礼」と返した。
「君に任せると言ったのに……すまない」
「別に構わないよ。信頼してくれなくても」
ふいと顔を背け、フリーデルは立ち去る。その後を困り顔のマイカが小走りで追いかけて行った。
二人の後ろ姿を見送りながら、副班長が囁く。
「……あいつ、あんな奴だったか?」
シラーは特に興味も無いように首を傾げる。
「さあ。元からじゃないかな?」
「あんな嫌味ったらしい言い方するの、初めて見たぞ。今まで猫かぶってたのか?」
「生来か後程からか、どちらにせよ」
毒されている。
そう呟いて、シラーは醜く歪む口元を、右手で覆い隠した。




