先約
人の噂もなんとやら。日数は忘れてしまったが、少なくとも二日やそこらではなかったように思える。
講義と終礼の合間に盛り上がる話題は、リシアと衛兵の有りもしないことや退学した生徒から、「建国節の歌姫」に移り変わっていた。
「結局、決まっていないんですって」
噂話をする一団の中心で、髪を引っ詰めた女生徒が囁く。
「候補者や経験者に声をかけているみたい」
視線が一瞬リシアの頬を撫ぜ、すぐにそれる。
「それなら、ここにいないでしょ」
全くもってその通りだ。
女生徒の言葉に内心リシアは大きく頷く。今年の歌姫が突如として辞退して以降、かつての師やエラキスの本部に声をかけられたことなどない。候補者はともかく、過去の歌姫は選考外に決まっている。
以前マイカが夢見るように語っていたことは起こるはずがないのだ。
それはそれとして、歌姫の不在が長過ぎるのは気がかりだ。建国節まで、もうあまり日は無い。既に現地入りをしていてもおかしくはない時期だ。
頬杖をつく。建国節が呼び水になって、昔の出来事を次々と思い返してしまう。初めて大勢の前で歌った時のこと、マイカのこと、歌姫に選ばれたこと、そして。
きゅっと目を瞑る。今は、こんなことを思い返して感傷に浸っている場合ではない。居住まいを正して終礼に備える。
担任による終礼は言葉少なく終わり、再び教室に喧騒が戻る。鞄を抱えて席を立つ。目指すは普通科棟だ。中庭で待ち伏せるのも今更回りくどい。直接アキラを誘うのも、この頃は慣れてきた。
教室を出る。
「リシア」
意気揚々と踏み出した足が勇み足のまま終わる。自身の名を呼んだ人間を探し、廊下を見渡す。
「今日はどこに?」
清廉な響きの声が、思いの外近くから聞こえた。動揺しつつ傍らに歩み寄ってきた少女に目を向ける。
蜂蜜色の髪が一房、金糸のように肩を滑り落ちた。
「……役所に行こうと」
かつての親友にそう告げると、大きな瞳が不安気に揺れた。
「もう、大丈夫なの?」
思わず周囲の様子を探ってしまう。こんなところで、聞かないでくれ。
「私と一緒に行く?」
手が差し伸べられる。視界の隅でマイカが微笑んでいる。いつものような聖女然とした笑みではなく、どこか気弱げな笑顔だった。
「アキラと行く」
一言告げる。わかりきっていたように、マイカは微笑んだまま手を下げた。
「一人じゃないなら、良かった」
下げた手が前掛けの裾を握り込む。昔から変わらない癖だ。口を閉ざしたままのマイカから離れるべく目を逸らす。
あれは本題ではない。
廊下を歩きながら思い返す。裾を握り込むのは気後れして言いたい事を言えない時の癖だ。だからと言って、何を伝えたかったのか。今のリシアには見当もつかない。
今更何を。
頭を振る。マイカと行動していたのも、去られたのも済んだ事だ。リシアにも非があったし、反省はすれど再び班に戻ってほしいとは思わない。
しかし彼女は、そうではないのだろうか。
ここ最近の接触を思い返す。検討外れかもしれないとすぐに思い至って、努めて思考を逸らした。
渡り廊下に差し掛かる。
「アキラ、本当に一試合だけ?放課後は長いよ?」
目を凝らす。廊下の先から、友人と普通科の女生徒が連れ立って歩いてきた。庭球の球をいくつか手にしている。
夜色の瞳と目が合った。
「リシア」
いいところに、とアキラは駆け寄る。
「会いに行こうと思ってた」
「そ、そう?」
何か察してくれたのか。戸惑いながら話を切り出そうとして、アキラと共にやってきた女生徒と目が合う。以前普通科の教室で見かけた顔だ。
「もしかして、用事が入ってる?」
先回りをして尋ねる。女生徒の表情が明るくなった。
「今からアキラと一試合しようと思って!でも先約があったみたいだから……どうしよう」
「先約」
アキラを見上げる。予定を空けていてくれたのか。何故か照れてしまう一方で、普通科での交友に配慮すべきか考える。
「待ってるよ」
控えめに告げると、アキラは小さく頷いた。隣の女生徒と向き合う。
「そういうわけだから、やっぱり一試合」
「わかった。あ、折角だから貴女も見ていく?」
申し出に一瞬動きを止め、返事をした。
「ええ、是非とも」
「じゃあ一緒に運動場いこー」
渡り廊下から外れて苑庭へ向かう。隣を歩くアキラに尋ねる。
「庭球もやるの?」
「最近覚えた」
以前の孔球といい、体を動かすことならなんでも出来るようだ。これは運動部が放っておかないのも当然だ。
この普通科の少女も虎視眈々とアキラを狙う一人なのだろう。リシアと目が合うたびに様子をうかがうような視線に変わる。
別にアキラを独占したいわけではない。むしろ、普通科での生活を優先してほしいと思っている。
ただ、周りより少しだけリシアの方が優先されていると、勘違いしそうになっただけだ。
庭球場にたどり着くと既に何人かの観客が待っていた。他の部の得物を持っている生徒も混じっているのを見て、リシアは感心する。
注目の的だ。
いつも通りの赤ジャージのまま自陣に入るアキラを見送る。
「頑張って」
ぽろりと応援がこぼれ落ちた。振り向いたアキラは頷き、部の備品らしいラケットを借り受けた。
いそいそとアキラがよく見える位置を探す。試合を見るのも応援をするのも、随分と久しぶりな気がした。




