憧憬(2)
神の声を聞くことも無いまま、「生き神」は任を解かれた。寝台の赤黒い染みを側仕えが見つけたのだ。
長々とした神官の説明を聞き、心の何処かで嗤う。前の「生き神」も、そのまた前の「生き神」もこうして神格を失って放り出されて来たのだ。彼女らのその後を当事者は知らない。どうせ、碌なものでは無いのだろう。
「次代はいるのか」
「ええ」
かつて側仕えだった、既に少女に仕える義理の無い女が頷く。
「この部屋は、じきに貴女の部屋ではなくなります」
「そうか」
会話の合間も忙しなく女は働く。寝台から枕や布を剥ぎ取り部屋を後にした。残された少女は、鏡台の前に立つ。鏡には化粧と宝石で飾り立てた小娘が映っていた。
小物入れの蓋を開ける。
実の両親から贈られた銀細工を取り出して身につけた。これぐらいは、これだけは、少女の物だ。
任を解かれても帰る場所はない。神官達は隠しているつもりだったようだが、少女の故郷は飢饉で人が絶え果てたと風の噂で聞いた。
少女の安否を伝える手間が無くなると、見習いが笑っていたのだ。
神像を見上げる。コレは両親を救ってはくれなかった。怒りや悲しみは際限なく湧き上がる。だが、その感情をどう扱えばいいのか、少女は知らずに生きて来た。
女が部屋に戻る。その目が少女の指を一瞬捉えた。
「まだ、汚れている」
先手を打つ。
女は少女から目を逸らし、何も無い寝台で空気をかき集めた。
ふらつきながら部屋を出る。例え誰も待っていなくても、朧げにしか覚えていなくても、故郷には戻りたい。だがその道のりは、人生の大半を小さな部屋で過ごして来た少女には途方もなく長大で困難に思えた。
神でも神官でもない、他の誰かを頼らなければ。
脳裏を過ったのは「冒険者」と呼ばれていた者の顔だった。どの階級にも属さず、境界を越え聖地を暴く者。彼等ならあるいは。
「落とし物だ。投げつけられたものを落とし物と言うかはわからないが、とにかく返したい」
耳を立てる。神殿のどこからか聞きなれない声が響いた。
声を頼りに彷徨う。
「此処は異邦の者が来る場所ではない。女神の寝所、現世の仮小屋だ。即刻立ち去れ」
「こんなゴツい指輪を投げつけて来たぞ。これも女神の神託か何かなのか」
違う声が加わる。
どうやら神殿の入り口で言い合っているようだ。階段の上から、人集りを見下ろす。
会話の内容には思い当たる節がある。
「私がやった」
一声告げて、目が合う。
いつか少女を不躾に見上げていた目と、再びまみえる。
神官はいつものように地に伏せようとして、既に少女が無関係の小娘であることに気付いたのか姿勢を正した。
思った通り、口論の相手は冒険者達だった。あの日見た異邦人と、毛色の違う同族。それから名も知らぬ種族が二人。
覆面の同族が指輪を掲げる。
「きみ……いや、貴女か」
階下に降りる。神官には目もくれず、異邦より来た冒険者達の前に立つ。
「長はお前か」
直感を頼りに尋ねると、異邦人は頷いた。そのまま簡素な礼をする。少女が神であろうとなかろうと、この異種族の対応は変わらないのだろう。何故だかそう思えた。
「指輪を返しに来ました」
異邦人の言葉を聞いて、隣の同族を見上げる。同族は屈んで少女と目線を合わせた。覆面の向こうで目が笑う。
「なかなか、痛かった」
そう告げて指輪を差し出す。少女の持ち物であった銀細工を受け取ろうとして、逡巡する。
これは機会だ。あのいけすかない神が手向けに寄越してくれた、またとない機会だ。
「お前」
指輪を摘まむ同族の指を握る。
「その指輪が欲しいか」
訝しげな様子の同族に畳み掛ける。
「くれてやってもいい」
「いや、こんなに上等なものを……これから使うこともあるだろうし」
「今使う。前金に貰え」
まやかしをかけるでもなく、ただ真っ直ぐに男の目を見つめる。覆面から覗く視線が隣の異邦人に向いた。
「依頼のようだ」
同族の言葉を聞いて安堵する。意図は伝わった。
何か良からぬ事を少女がしでかそうとしていると思ったのか、神官が手を伸ばす。
「触れるな。障るぞ」
囁く。微かなまやかしでも、かつて少女を神と信奉していた者には覿面のようだった。頭を垂れ、下がる。
「用件を聞きましょうか」
神官の気配が無くなった後、異邦人が尋ねる。小さく頷く。
「ここより西に、銀細工を生業とする一族が住まう村がある。そこに私を連れて行ってくれ」
既に廃村と化しているかもしれない。それでも一縷の望みに縋る。
「……訳ありの身分だというのは見てわかりますが、此処の者は使えないのですか」
「もう、私はそのような立場にはない。此奴らも信用出来ない。私がただの小娘になったと知っているから」
頼む、と小さく懇願する。
「他の方法が、わからない」
同族と異邦人、他の異種族が顔を見合わせる。
「彼女、同年代のセリアンスロープと比べても発育が悪い」
神の一柱が騎乗する鳥によく似た尾羽を持つ異種族が、まず発言する。
「ここに置いては行きたくないね」
「面倒ごとは好きよ。連れて行きましょう」
滑らかな肌と複眼を持つ異種族の発言。
「……次の目的地がな。逆方向ではある」
同じセリアンスロープではあるが随分と形質の違う男の発言。
三人の視線が一点に集まる。
「代表」
冒険者の長は一人一人の言葉を思い返すようにゆるりと見渡す。最後に少女を見つめ、片膝をついた。
「依頼を請けます」
少女は塊のような息を吐く。緊張の糸が切れたのだ。
「感謝する」
「いつ発ちますか」
「今すぐにでも」
少女の所持物は既に全て身につけている。心残りも無い。思い切りの良い言葉を聞いて、同族の冒険者が低く笑った。
「では、早速」
異邦人が立ちあがろうとして、再び腰を下ろした。
「名前をお聞きしても」
一瞬、少女は戸惑う。随分と長い間名前を呼ばれたことも名乗ったことも無かったからだ。
古い記憶を思い起こす。父は、母は、何と呼んでいたか。もう声も憶えていないことに少女は愕然とする。
それでも一つ思い出したことがあった。指に嵌めた銀細工を外し、裏に彫られた文字を読み上げる。
「ケイン」
もう一度小さく言い含める。
「ケイン。そう呼ばれていた」
冒険者は頷き、立ち上がる。
「行きましょう、ケイン」
名を呼ぶ。
その瞬間、少女は再び「ケイン」になった。




