夜干舎と過去(2)
扉が閉まる。
薄暗い出入り口側の卓に二人のセリアンスロープが腰掛ける。結局、「夜干舎」からはウゴウの他に同席する者は居ないようだ。もっともウゴウの指示通り素直に帰ったとも思えない。外で待っているのだろう。
「水」
しゃがれ声と共に杯が四つ簾の隙間から現れる。既にライサンダーとハロの手元には杯がある。リシアは先に二つ取り、自身とアキラの前に置いた。残る二つをセリアンスロープ達の元に持って行こうと振り向くと、既にライサンダーによって運ばれていた。
この険悪な空気の中、女学生二人に気遣ってくれたのかもしれない。会釈をすると、向こうも小さく首を傾げてくれた。
「ん、ありがとう」
受け取った杯に口を付けたケインとは対照的に、ウゴウは会釈をしたきり手に取りもしない。ケインが水を飲み干したら即座に話を切り出そうとしているようだった。
微かに音を立て、空の杯が卓に戻る。
「わかってはいると思うが、今日来たのは」
「うん、わかっているとも」
代表両者共、口を開いた。む、と覆面の向こうで声が詰まる。
「相手は誰なんだ?まさかアムネリスとか」
覆面越しでも意外に表情はわかるものだ。明らかに一瞬、ウゴウは呆気に取られていた。
かく言うリシアも唖然とする。何の話だ。
「その話は……やらなければならないが後にしてくれ」
「名前の方なら、テコでも動かん」
悠然とケインは椅子にもたれかかる。普段の人懐っこい様はどこへやら、冒険者らしい荒んだ雰囲気が滲む。
こちらが本題だということは、流石にリシアも勘付いた。
「代表の言葉は覚えているだろう。アムネリスも証人になってくれる」
「屋号を残せとは言わなかった」
「……存在してることが問題なら、何故そっちも同じ名を使うんだ」
唇の端から牙が覗く。見慣れない横顔にリシアは息を呑んだ。ドレイクとはまるで異なる、哺乳類と言う別の動物であることを改めて認識する。
「まるで撹乱だ」
「惑わしているのはお前のほうだろう、ケイン。戻る場所を見失わせるつもりか」
「戻る場所?」
薄闇の中、赤銅色の目が見開かれる。セリアンスロープは怒りで震える声を絞り出した。
「何を、馬鹿なことを」
一瞬の沈黙の後、少しの動きも許さないほどの怒気が店内に満ちる。まやかしと見紛うばかりの異様な空気が、びりびりと肌を痺れさせた。
「ウゴウ、お前そんなに残酷な奴だったか?」
身を乗り出し相手を睨め付ける。普段怒りを見せることなど滅多にない人物の気迫に、リシアは目を離せなくなる。
「残酷、か」
ウゴウは復唱するように呟く。
「何が酷いと言うんだ。代表の居場所を残しているだけじゃないか」
「迷宮に魅入られて人生が終わった人間を、未練がましくしがみ付かせるような真似はやめろ」
熱気の中に、悲哀が紛れた叫びだった。
こんな話を聞いていて良いのだろうか。握り込んだ手が震える。今目の前で起きているのは明らかに、かつての夜干舎の暗部を曝け出す行為だ。リシアのような部外者が覗くには刺激が強すぎるし、そんな権利も無いように思える。
それでも、耳を澄ませ、注視せざるを得ない。
肩で息をつくケインとは対照的に、覆面の男は微動だにしない。その姿と静けさがどうにも不気味に思えた矢先だった。
「いいや」
熱気が冷える。
「終わってなんかいない」
ウゴウの言葉だと気付くのにリシアはしばし時間を要した。先程は読み取れた覆面越しの表情が、今は全くわからない。
ケインと同様、この「夜干舎代表」もまた譲れないものがある。
わかるのはそれだけだ。
「ケイン。お前も本当は昔のことを忘れられないから」
「うん?」
至極不機嫌な声音で、赤銅のセリアンスロープは相手の言葉を遮る。
しかしその声には既に、先程の異常な熱気は篭っていないように感じられた。
「ウゴウと一緒にしないでくれ。それとも、なんだ。別の要件の話でもするのか?昔だのなんだの」
「今それを蒸し返すな」
「不満ならいつでも離婚してもいいんだ。お前も良い歳だし、相手の一人や二人はいるんじゃないか?」
「へ」
不穏な話が一転、妙な方向へと転がる。同時に想像もしなかった単語が聞こえてきて、リシアは呆ける。
離婚。誰が離婚するのか。いやそもそも、誰が結婚していたのか。
何故か脳裏を銀色の指輪が過ぎる。どこで見て、何故それに違和感を覚えたのかを思い出そうとする。確か、造りが似ていると思ったのだ。同じセリアンスロープなのだから、そういう様式なのだとばかり。
「そうなると困るのはそっちだろ。戸籍はどうする」
「ん?」
ウゴウの返答もまた予想外のものだった。
周囲を見渡しても特に表情に変化はない。ハロなどは、まるでわかりきっていたことのように冷めた目で事態を静観している。
「アキラ」
思わず同輩の袖を引く。いつもと同じく平然とした様子の少女はセリアンスロープ達を眺めて、呟く。
「驚いたね」
抑揚のない言葉からは微塵も驚愕は伝わってこなかった。
何となく、わかっていなかったのは自分だけだった気がして、リシアは縮こまった。




