衆目
他人の視線を気にしながら、午前の授業を終える。時折聞こえる密やかな話し声が自分に関係のないものだと信じながら、リシアは手帳を閉じた。
食欲はない。それでも何かは口にしないと。執事が用意してくれた昼食の籠を手に取る。
「今日、衛兵が来るって本当?」
視線だけを巡らせる。誰かの話の続きを聞こうにも、昼休みの喧騒に紛れてしまった。
衛兵が来る理由は一つしか思い当たらない。これが良い方向に転がってくれたら良いのだが。とりあえずの進展に安堵してリシアは籠を開ける。
「で、その発端が……ほらあの子」
籠を閉じ、席を立つ。自身のことを指している確証など無いが、ただただ、逃げ出したくなったのだ。
昼食を片手に携え、誰も視界に入れないように教室を後にする。逃げ先を考えるよりも先に、自然に足は普通科棟へと向かう。階下に駆け下り、講師室前の廊下に出る。
「何があったのか、その女生徒に聞けば明確になるのでは」
苛立ちの滲んだ声が響く。進もうとした足が、竦んで止まってしまった。
「呼んできてください。衛兵と生徒の証言を照らし合わせませんか。そうでないと貴方がたに分が」
「目撃者がいる。それで十分ではありませんか。衛兵と受付嬢の聴取なら役所でも行える」
いずれも知らない声だった。知らない誰かが、おそらく昨日のことについて……自分のことについて話している。その場から立ち去ろうにも、聴覚だけが鋭敏に機能する。
「学苑側に何の非も無いとでも言うのか」
野太いこの声には聞き覚えがあった。衛兵を引っ立ててはくれたが微塵もリシアを信用していないであろう隊長も、同席している。
「とにかく、席を改めましょう。今日のところはお引き取りください」
「そうやって話を後回しにするそちらの態度が、我々に不信感を抱かせるのだ」
宥めすかすような声に隊長はより激昂する。お引き取りを、と改めて告げられた瞬間、講師室の扉が勢いよく開く。
一歩廊下に出た衛兵隊長と目が合った。
「……なんだ。奇遇だな」
怒気とも喜色ともつかない表情が隊長の口端に滲む。適当な挨拶をして立ち去ろうとした瞬間、腕を捕らえられる。
固い掌の感触に全身が粟立った。
現実と昨日の記憶が混線してよろめいたまま、力任せに引き込まれる。昼食を入れた籠が手から離れて転がっていった。
「当事者がいた。いい機会だ、後日と言わず今改めて話を聞こうじゃないか。昨日、いやこれまでに何があったのか」
顔を上げる。
この場に何人いるのだろう。誰の顔もはっきりと見えない。だが視線は痛いほどに感じる。みんなこちらを見ている。
「役所での出来事を話せ」
背中を押される。
「お前が何を言おうと否定はしない。さあ」
弁解の場は与えてやるという優しさのつもりなのか。こんな場所に引き出して。こんな形で話させて。
まるで見せ物だ。
沈黙が良いように解釈されてしまうことを恐れて口を開く。
「私は、何も」
そう言ったところで、ここにいる誰がまともに取り合ってくれるのか。信じてくれる人なんて、いないのかもしれない。
不安に押し潰される。続く言葉の代わりに涙が滲んだ。
杖を突く鈍い音と共に、視界が暗く翳る。
「隊長殿」
軽く押しやられ壁に手をつく。講師の背後でリシアは静かに息を整えた。
「これ以上傷付けるつもりですか」
講師が視線を遮る。静かな声の後に、衛兵隊長が不満気に息を漏らした。
「……これしきの追及で音を上げるようでは」
「まだ学生です」
今度は忍び笑いを漏らす。
「学生か。こんなことをさせておいて」
忍び笑いは、一人だけではない気がした。
耐えられなくなって目を固く閉ざす。
「よっこいしょ」
誰かが椅子を引いて立ち上がる。途端、忍び笑いが消え失せた。
「アンナベルグ氏の言う通りだ。彼女をこれ以上、云われなく傷付けてはいけない」
足音が近づいて来る。
視界の隅で、皺だらけの手が差し伸べられた。
「こんなところに居たくはないだろう。私と一緒に出ようか」
作業着の老人が微笑んだ。目元を拭って頷き、手を重ねる。
「それと、隊長殿」
衛兵は姿勢を正す。綺麗に揃えた足下を、リシアは滲んだ視界でぼんやりと眺めた。
「少し思慮が浅いのではないかね」
講師相手とは違い、目に見えて反応はない。しかし水を打ったような緊張が、衛兵だけではなく全員に走ったようだった。
室内に背を向け用務員はリシアの手を引いた。廊下に出た後扉を閉め、リシアに向き直る。
「教室に戻れそうかい?」
首を横に振る。
「他に向かえそうなところは。友達のところとか」
首を横に振る。今は、アキラに会えない。
「そうか。なら、保健室か……狭いが作業小屋にでも。お茶ぐらいなら出せるとも」
少しの間佇んで、掠れた声を何とか戻す。
「小屋に、お邪魔します」
「ああ是非とも。さあ足元に気をつけて」
「ありがとうございます。デマントイド卿」
「『用務員さん』や『デマントイドさん』で構わないよ」
震える足で廊下を歩く。背後の講師室から、戸惑うような騒めきが微かに響いた。




