袋小路
逃げるように中庭から離れ、フォリエはあてもなく彷徨う。教室は駄目だ。リシアがいる。講師室は駄目だ。リシアの言葉の通りなら、既に講師陣は何もかもを知っている。彼女の毅然とした声と眼差しを思い返すたび、どうしようもなく目が眩む。
昨日の出来事を知ったのは偶然だった。記号である制服を脱ぎ、街に溶け込む私服を纏って役所を訪れる。それが最低限、身を守る「決まり」だった。人の出入りが少なくなる頃を見計らってあの男に声をかける。いつものようにそうしようとして、あの騒動を目にした。
リシアは友人と思わしき異種族や受付嬢に助けられ、危機を脱した。
何故、自身はああならなかったのだろう。迷宮科が嫌で、衛兵に捨てられることが嫌で、それすらも知られたくなくて、逃げても逃げても深みにはまるばかりだ。
だから、あんなことを口走ってしまったのか。
渡り廊下から校舎裏に抜ける。呼吸を整えながら木々に紛れた。
「おや」
涼やかな声が、すぐ近くから聞こえた。期待と共に周囲を見渡す。
「おはよう。フォリエ、だったっけ……顔色が悪いようだけど」
手帳を片手に木陰から姿を現した貴公子が微笑む。衛兵や自身の同輩の持つ野卑た雰囲気が一切ない佇まいに、フォリエは安堵した。
これが「普通」だ。かつて自分がいた社会を思い出す。迷宮、衛兵、絶望、その他諸々と無縁だったあの日々こそが、自身の本来の居場所のはずなのだ。
その象徴のようなシラーも迷宮科にいるのは、皮肉のように思える。彼もまたリシアやフォリエと同じ境遇のはずだ。
「ご機嫌よう、シラー様」
迷宮科では「気取った」などと言われる挨拶を返す。血色の悪い顔を隠すように、口元に手を添えた。
「朝に弱くて。恥ずかしい限りです」
「それだけではなさそうだけど」
「そうですね、気疲れしているのかもしれません」
出来うる限り儚く物憂げに笑む。
「気疲れか。ゆっくり休んだほうがいい」
貴公子は告げる。微かな拒絶を感じて、フォリエは眉を顰めた。
「……申し訳ありません。何か、粗相をしてしまったのでしょうか」
粘着くような沈黙の後、貴公子が口を開く。
「君の現況は把握している」
言葉の意味がよく理解できなかった。
「?」
曖昧に微笑みながら首を傾げる。その様子を見て、小さくシラーはため息をついた。
「依頼のこと、衛兵とのこと、体のこと」
それから。
いくつか並べたて、言葉を一瞬切る。
「友人のこと」
いつの間にか懐に入れていた手を引き抜く。掌に収まった布切れを目にして、フォリエは小さく息を呑んだ。
「これは君の落とし物だろう?」
差し出された腕章のなれの果てを引ったくる。これをどこで。そんなことより、弁解をしなければならない。いや不用意なことは。混乱する脳が言葉を垂れ流してしまう。
「その、何を……違うんです、違うんです」
あの男から貰った依頼をこなすため、第一通路に入った。確か、ネズミの駆除だった。他の班員とは日程の調整ができなくて、彼女と二人きりだった。
「あの子を置いていくつもりなんてなかった」
あの人、やめた方がいいよ。
先生に相談しよう。
他の人に言ったりはしないから。
彼女の言葉を「嘘」だと思った。誰にも知られたくなかった。
こんな事になって、もう後戻りはできないと思った。
「誰にも、言わないで」
顔を覆う。
指の向こうで、シラーの口が弧を描いた。
「そうだね。僕は言わないでおこうか。君の友人のようにはなりたくないし」
声音の割に冷えた物言いだった。しゃくり上げるように肩を震わせる。
「ああでも、あと一つ。これだけは伝えておくよ」
目線を合わせるように貴公子は屈んだ。指の合間に影が落ちる。
「この間、想いを伝えてくれた理由も想像はついている」
手の中で、乾いた目を見開く。
「悪手だと思うけど、相手は僕以外にしてくれ。もしこれ以上おかしなことをするようだったら、こちらも動かざるを得ない」
酷だけど。
そう言う口振りも、目も、同情なんてかけらも含んではなかった。
「誰かに縋るにも方法がある。よく考えた方がいい」
暗闇の向こうでシラーが立ち上がった気配があった。遠ざかる足音を聞きながら、フォリエはゆっくりと顔を上げる。
「貴公子」などと言うけれど、哀れな女を慰めるような性質ではなかったようだ。あるいは最初からフォリエのことを警戒していたのだろう。
何もかもが甘すぎた。
震えながら笑う。女学生の謀とも言えない逃避の果てがこんな袋小路だと、思いもしなかった。
これからどうすればいい。
どうすれば。
「フォリエ?」
能天気な声が背を打つ。沈んでいた意識を現実に引き戻され、フォリエは振り返った。
心配げな表情で班長がこちらに歩み寄ってくる。
「朝っぱらからこんなところで、何してたんだ?」
そう言いつつ背後を気にする。おそらくシラーとすれ違いでもしたのだろう。何を考えているのか、立ち尽くすフォリエを見つめながら何事か言い淀む。そんな彼の姿が追い詰められた思考を歪める。
行き止まりばかりの迷宮だけど、まだ逃げ道はあるかもしれない。
腕章を握り隠して、物憂げに笑顔を作った。




