吹聴
ひりつくような痛みで目が覚める。帳から差し込む朝日の中、裾を捲って腹部を見下ろした。一瞬ぎょっとして、昨日の死闘を思い返して納得する。
午後に医者を呼んで診てもらおう。覚醒直後のぼんやりとした決意と共に寝台から這い出る。
制服に着替え、いつも通り朝食を取る。その際に執事に医者を頼み、心配されながらも家を出る。ただの打身であろうことは執事もリシア自身も承知だ。それでも家人は不安なのだろう。
「いってきます」
いつもより元気よく声をかけ門を出る。一度執事を振り返り、坂を下った。
講義を休みたくない、というだけの理由ではない。アキラに会って今後の予定も立てなければならないのだ。そのためには中庭か、普通科の教室へ行く必要がある。
数日に一回はスフェーン邸に集まるなど決めた方が効率が良いのだろうか。いや、そのための集会所か。思い耽るうちに正門へ足を踏み入れる。
校舎へと向かう途中、習慣となりつつある中庭の確認をする。女学生が二人、掲示板の前で会話をしていた。その神妙な顔つきを見て足を止める。
「嘘、本当に?」
「つい昨日の話。衛兵相手に如何わしいことを持ちかけて、咎められたとか」
背筋を冷たいものが伝う。中庭へ至る道から身を隠す。
「可哀想ね」
そう告げる声は、何度も聞いたことがあった。自分のこととは限らない。そんな希望的観測ができるような精神状態ではなかった。呼吸を整え再び中庭を覗き込む。
「でもね、そうすると納得がいくの。ここ最近成績を伸ばしてるのも」
「なるほど!見返りに仕事を貰ってるんだ」
暫しの沈黙の後、女生徒がこぼす。
「まさか、リシアがね」
体が震えた。
音が出たわけでもないのに、二人の女生徒のうち入口に背を向けていた方が不意に振り向いた。
「誰か?」
短くフォリエは告げる。既のところでリシアは身を隠す。
しかしすぐに、腑が煮え繰り返るような衝動が体を突き動かした。
「あの、今の」
中庭へ続く道に立ち塞がる。女学生二名、共に竦み上がったように見えた。特にフォリエは、普段より一層青褪めた顔を逸らすように視線を泳がせる。
「ご、ご機嫌よう」
引き攣り笑いを浮かべた女生徒が挨拶をする。返すよりも先に詰め寄る。
「私の名前が聞こえたのだけれど。詳しく聞かせてほしい」
そう告げる声の怒気が隠しきれていない。経験上、冷静さを失っては相手に「信憑性」を与えるだけだとはわかっている。それでも激昂せずにはいられなかった。
「なんでもないの。ただの噂」
「そう。どんな噂か、もう一度教えて」
空気が張り詰める。フォリエと向かい合う女生徒は泣きそうな表情で狼狽え始めた。当のフォリエは口を引き締め、足元を見つめたまま微動だにしない。先程の挙動不審な様子から落ち着きを取り戻したようだ。
「……貴女が、衛兵と取引をしているという噂を聞いたの。その、大きな声では言えないけど、そういったことを代償に」
気遣うような声音でフォリエは尋ねる。
「違うよね?」
白々しい。そう言い捨てようとして抑える。何故彼女がそのような噂を広めようとしているのか……そもそもいつ知ったのか。そこまで気が回らないまま、噂の発端から説明をする。
「昨日、衛兵に取引を持ちかけられて脅されたのは事実。でも私は一度もそんな誘いに乗ったことはないし、当の衛兵も隊長や役所の職員に私を脅していたところを見つかって連れて行かれた。おそらく役所か学苑から、詳しい通達が来るはず」
滔々と告げるリシアの言葉を、少なくとも噂を吹き込まれていた方の女学生は信じたようだ。唖然とした表情が、一瞬訝し気なものに変わる。
「昨日?」
「ええ。どんな人脈で知ったかはわからないけど、せめて正しく……」
そこまで言って、眼前のフォリエの異変に気付く。青白い頬を伝う汗が一粒、また一粒と地に滴る。
「様子が」
思わず尋ねると、少女はよろめきながら数歩後ずさった。
「ごめんなさい」
絞り出すようにそう告げて、フォリエは駆け出す。渡り廊下の方へと去っていった少女の後ろ姿を見送り、リシアはもう一人の女生徒と再び向き合う。
「あの」
「は、はい」
「今話したことが真実だから、信じてほしい」
フォリエの挙動も鑑みてか、女生徒は戸惑うようなそぶりを見せながらも頷いた。安心は出来ず、許したわけでもないがリシアはその場を離れることにする。
打身が痛む。
裏切られた。そんな気分だ。自身は潔白だし、フォリエも義理なんてないのだろうが、それでも、あんな噂を広めようとするなんて。唇を噛み締め教室へと向かう。
次第に歩む速度が遅くなる。
何故、彼女は昨晩のことを知っていたのだろう。実はあの場に居合わせていたのだろうか。あるいは騒動を後から知る機会があったのか。それに噂を広める理由も、単なる無配慮な好奇心だけとは思えない。リシアを囮にして何かを隠したいのでは。
脈絡もなく、突飛で下劣な想像をしてしまう。
まさかフォリエが「当事者」なのか。
頭を振る。何の根拠もない。先程のフォリエに投げた言葉そのままだ。
それでも何処かにわだかまりは残っている。腹部を押さえ、リシアは誰もいない教室に入った。




