狼藉
握られた手を間髪入れずに引かれ、思わず二、三歩進む。角を曲がっただけだというのに、街の喧騒も受付の灯も遠ざかる。薄暗がりの中、リシアは衛士の顔と自信の手を瞬時に確認した。
努めて冷静に発言する。
「……離してください。非常識ですよ」
腕を引く。
引き返される。
「ふーん。リシアちゃんって言うんだ」
リシアの言葉など端から聞いていないのだろう。生徒手帳の頁を片手の指で器用にめくり、衛士は呟く。
「スフェーンって、確か爵位持ちだよね。大変だねぇ没落ってのも。冒険者なんか目指さなきゃいけないなんて」
憐れむようにため息をつき、嘲笑を浮かべる。
「まあ君らがやってるのは、冒険者ごっこかな」
「たかが遊びで危険を冒しはしません。私たちは皆、志を持って学んでいます」
冷ややかな声で告げると、相手は一瞬眉を顰めた。
「真面目だね」
一歩男は近付く。
「てっきり小遣い稼ぎに励んでる子だと」
少額の依頼の事だとリシアは理解した。しかしすぐに否定される。
「ああそれとも、代わりに依頼を欲しいとか?」
「……?」
「君もフォリエと同じ口か。困るな、そういう噂が広まるの」
口振りとは裏腹に、男は嗤う。先程から頭のどこかで鳴り響く警鐘が煩くて仕方がない。
「何の話ですか」
「何って、依頼の斡旋だよ」
「衛兵の仕事とは思えませんが」
「まあね。でも需要はあるからさ。で、どんな依頼を作れば、もとい用意すればいい?採取とか点検とかお散歩程度でも、掲示板には潜り込ませられるし受付も怪しまないから。単位取るのに必要なんでしょ」
体が強張る。あからさまに「餌」をちらつかされていると気付いて、頭に血が上りそうになった。何より男の言う依頼の斡旋……粗製濫造は到底真っ当な行為ではない。今すぐにでもこの場を離れたくて、リシアは声を荒げた。
「依頼に困ってはいません。貴方に用はない」
「安定して依頼を貰える手段があるっていうのに蹴るの?それにさ、依頼を潜り込ませられるってことは破棄することもできるんだよ。そんな態度取っていいの」
怒りよりも男の言動の不可解さに意識が向く。この男の目的は何だ。つまり、何が言いたい。
「媚びたら?みんなそうしてるよ」
理解した。
「恥を知りなさい」
吐き捨てるように言う口を男の手が塞ぐ。間髪入れず歯を立てた。小さく呻き、腕を掴んでいた力が緩む。
振り解いて後ずさった。
男は少女が小さく噛み跡をつけた掌をさすりながら平然としている。これからリシアがどのような行動を取るか、予測がつかない訳はない。余裕綽々とした様子が殊更不気味だ。
「……別に誰に言ってもいいけどさ」
嘲るように目が細まる。
「私服で此処に来る迷宮科の女生徒なんて、そういう目的だと思われてもおかしくないよ。制服で相手を探すなんて目立つし有り得ないでしょ」
捨て台詞だ、と一笑に付すことも出来ない。言葉に詰まる少女を見下ろし、男は手を伸ばす。
「黙っててあげようか?タダじゃないけど」
ウィンドミルの柄に手をかける。剣を抜くためではない。ただ、寄る方が欲しかっただけだ。
「学苑に報告します」
そう告げて踵を返す。気配が二の腕に近付いた。また掴まれると直感して上体をひねるも、一瞬遅く、リシアの腕を男は捕らえた。
「触るな……!」
静かな役所の廊下に、思いのほか大きく声が響いた。明らかに怯んだ男の目に、人影が映り込む。
「お兄さん、見苦しくない?」
背後から聞こえる囁き声に、リシアも怯む。金属の爪が床を掻いた。
「バツが悪いからって必死に言葉並べ立てて引き止めてさ」
整った顔がひょっこりと隣に現れる。よく知るハルピュイアの出現に、リシアは目を白黒させた。
「それもこんな客を探す要領も無さそうな子相手に。おもしろっ」
尾羽が上下に触れる。にこやかなハルピュイアを前に、男はリシアの腕を捕らえたまま目を泳がせる。
「とりあえず手離したら?」
「……何の話だ。俺はただおかしな振る舞いをしていた此奴を」
「離したらって言ってんの」
ふっと眼前を風が通る。途端腕が自由になり、男の手があらぬ方向に投げ出された。
「いっ」
ハロの蹴りが指をかすめたのだろう。手を庇い、男は異種族を睨みつける。
「ごめん、指飛んでないよね?」
「貴様っ……」
わざとらしく首を傾げるハロに今度こそ、男は掴みかかりでもしそうなほどに逆上する。その背後、廊下の中程で突如明かりが灯った。
「隊長、こちらです」
焦りを含んだ受付嬢の声が響く。廊下の先から手燈を持って、清掃の時に見かけた大柄なドレイクが姿を現す。
「お前達、何事だ!」
怒号が飛ぶ。前方のリシア達と後方の衛兵を忙しなく見比べて、男は駆け出した。
逃げられる。
これまでの相手を見下した態度からの変容に呆れる間も無く、リシアは叫ぶ。
「待て!」
途端、男の足が払われた。微かに石の床を火花が散り、男は倒れ伏す。
「遅っ」
吐き捨てるようにハルピュイアが呟く。いつの間にか男の傍らに立っていたハロは男の両腕を固定し、衛兵を手招いた。




