とどめ
脳裏を過ぎったのは「落盤」の文字だった。
迷宮内で最も恐ろしく、また対処のしようがないものに自然災害がある。抵抗の余地がある獣害はまだしも、天候や地異天変の前では誰もがなす術もなく翻弄され、潰える。こと地下迷宮において、落盤は即ち死を意味する大災害だ。
押し潰されるか、閉じ込められるか。どちらがマシかなどと考えるよりも先にリシアの体は動いた。
動いた?
一点を見つめ微動だにしないアキラの元に駆け寄り、違和感に気付く。リシアにのしかかるかのように思えた大蛇の姿は、土埃の彼方に隠れてしまっている。うっすらと見える影が微かに痙攣するような動きを見せた。
「大丈夫ですか?」
聞き覚えのある声が鮮明になりつつある視界の隅から響く。声の主を照会する最中、土煙りの中から現れ出でた惨状に息を呑む。
大蛇の頭が岩に砕かれていた。
正確には、岩のような「何か」に砕かれていた。
血に塗れた岩に亀裂が走る。柔らかな外套膜がまろび出て、岩が裏返った。硬質な殻が擦れ合う音を立てて外套膜は形を整えていく。
ドレイクによく似た顔が、口を動かさずに言葉を発する。
「怪我……怪我をしています。とても痛そう」
ずるずると外套膜の裾を引き摺りながら「夜干舎」の天使はリシアに近付く。唖然としたまま異種族を暫し見つめた後、自身の置かれている状況を思い出して辺りを見回す。
開けた通路の一画、やって来た時は確かに壁だった場所に、大きな横穴が空いている。匙で抉り取ったような滑らかな土肌が、僅かな間を置いて「落盤」と関連付いた。
そうか。そもそも落盤なんかでは無かったのか。
腑に落ちそうになって我にかえる。
「あの、いったい何処からどうやって」
「お仕事をしていたら、皆さんの声が聞こえてきて。なんだか大変そうだったので、少し近道をして加勢にきたのです」
「近道」
「ええ」
荒唐無稽な思いつきの通りだった。天使の変形を思い返して、リシアは再び腑に落とそうとする。
「穴を掘ってきたんですか」
リシアの隣でアキラが呟く。こくこくと天使は首を縦に何度か振った。
「当たりどころが良かったみたいですね」
大蛇を裾で指し示しながらそんなことを言う。
一先ず、落盤ではないことは確かだ。少しだけ気が楽になる。
「それでその、お怪我は」
尋ねられて、リシアは身体を見下ろす。
血を吸った制服が変色していた。
自身の姿を捉えた途端、臭気が立ち込める。
「う……」
顔を顰め、ふらつく。慌てたように天使が手を差し伸べた。
「ああ、やっぱり。弱ってらっしゃいますね」
ぺたぺたと冷たい膜が頬に張り付く。粘度の高い肌触りは、天使が分泌するものだけではないのだろう。自身の頬も赤く血濡れているに違いない。
「怪我は打身だけです。この血は、蛇の返り血で」
そう告げると、天使は殊更不安げにリシアに触れた。
「声、震えてます……」
心臓が鼓膜を震わせるほどに大きく打ち鳴った。目を背けていた虚脱感と昂りが一度に襲いかかってくる。黙したまま浅く呼吸を繰り返して、熱を鎮める。
「スローネ」
一時の静寂を破るように、天使の名が呼ばれる。アキラが穴の方を向いて身構えた。
この声も、聞き覚えがあった。
「ああ。やっぱり貴女方でしたか」
大きな尻尾を揺らし、覆面のセリアンスロープが蛇の尾を跨ぐ。接見禁止の取り決めも、今この状況では取り沙汰するだけ無駄だろう。大人しくリシアは会釈をする。
「こ、こんにちは……?」
何から言えば良いのか思いつかず、挨拶を告げる。
「こんにちは」
傍らの天使が返す。一番大事なことを言いそびれていることに気付いて、慌てて頭を下げた。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。あの様子だと、随分と弱っていたようですし」
「そうなんです。全然、死ななくて」
声が上擦る。
言い訳のようだ。普段なら口にしないであろう言葉が、精神状態を端的に示している。
これまでにも多くの生き物を「倒して」きたのに、何故この大蛇の抵抗が焼き付いているのだろうか。
「蛇はしぶとい」
そう言って「夜干舎」のセリアンスロープは蛇の頭部へと歩み寄った。何か祈りに似た仕草をして、此方を振り向く。
「見たところ、とどめはうちの組合員が刺したようだ」
「はい」
「近道をしたら、掘った先にいたんです。凄いですよね」
子供のように代表に報告するスローネを横目に、リシアは言わんとするところを察する。
分前の話だ。
「あの、好きなところをどうぞ。大蛇の用途はよくわからないですけど」
「ドレイクさんやセリアンスロープさんは、美味しい美味しいって食べたりしますよね」
「肉……だったら、ちょっと穴だらけかもしれない」
天使との噛み合っているかも怪しい会話の最中、セリアンスロープが手招きをする。
「解体、しましょう」
言葉に詰まる。途端、立ち竦んでいるだけの自身に気がついた。それはアキラも同様だったようで、慌てて小物入れを探っている。
「わ、わかりました」
解体用の小刀を取ろうと、ウィンドミルから手を離す。
粘ついた血が少しだけ抵抗を示した。




