取引の報告
「虫」の意味するところに思い当たったのは、歴史の講義の途中だった。思わず声を上げて頭を抱えそうになり、黒板から目を逸らすだけに抑える。
道理で、不機嫌になったわけだ。
シラーとアキラのやりとりにはどうにも入り辛い。どちらもリシアの予想のつかないところで火がつくからだ。今日の着火点は「虫」の下りだった。
リシアには、「虫」がケラの他に何を指すのか、その時は思い至らなかった。
昼休みからずっと引っかかり続けていた謎が氷解する。同時に、別の感情が込み上げてきた。
「虫」は恐らく、夜干舎のフェアリーを指している。「そちらの虫」で瞬時にアキラが沸騰したのは、かのフェアリーを侮辱したと受け取ったからなのだろう。
リシアの感性でもこれは侮辱の言葉だ。それを踏まえて思い返せば、シラーの発言は確かに、良識を疑うものだった。
加えて理解が出来ないのは、何故シラーがそれを口に出したかだ。
軽々しく侮辱を口に出すような人間ではない。そう思っていた。だというのにあの言葉は、まるでアキラを煽り立てるようではないか。
講師の視線を感じて、慌てて教科書に視線を落とす。それでも脳内に教科書の内容が入ってくることはなかった。
理由を考えるのは野暮なことだ。
そう思い直して、自分自身野暮なことを考えているからこその結論だと気付く。息をついて姿勢を正す。
幸い、残りの授業は集中することが出来た。板書に追いついたところで鐘が鳴り、講師が終礼に入る。
「予習復習は勿論ですが、講義にも集中してくださいね」
何もリシア一人に対しての言葉ではないはずだが、ぎくりとする。教室から出て行く背中を見送って胸を撫で下ろした。
入れ違いに別の教室の女生徒達が転がり込む。前方の席で何人か寄り集まって、黄色い声を上げた。
「普通科の子とシラー様が?」
耳をそばだてたわけでもないのに、そんな言葉が一際大きく聞こえた。
「シラー様はまあ、そういう話は珍しくないけど」
「今回は本気なんだって!第六班の子が言ってたもん」
中庭での出来事が広まり始めているようだ。噂の伝播に驚きつつ、一先ず聞き耳を立てるに止める。
「それで、どんな子なの」
「普通科ってことは、落ちぶれてもない貴族か羽振りのいい平民でしょ」
「そうじゃなくて容姿とか性格」
「背が高い、黒髪の美人だって」
その特徴だけで、該当する少女が絞れてしまいそうだった。アキラのことを思って頭を抱える。
「性格は」
「愛想がいい感じの子ではないみたい」
「へぇ、そういう子が好みなんだ」
妙な沈黙や熟考が一団の中で始まる。
アキラが何らかの参考になるとは思えない。彼女だからこそ、シラーは興味を持ったのだ。最もそれを少女達に告げるような勇気は持ち合わせていない。結局、黙することしか出来なかった。
終業の礼を終えて、そそくさと教室を後にする。去り際に再び少女達が集まっていたのが見えたが、話の内容を悟って背を向けた。
講師室の戸を叩く。中から女性の返事があった。
「どうぞ」
「失礼します」
一礼する。部屋の中には終業すぐのせいか、作法の女性講師と迷宮科の講師しかいない。何かの報告書に目を通している講師のもとへ歩み寄り、声をかける。
「スフェーンです。今、お時間はありますか」
「……問題ない」
報告書を裏返す。空いた手が、椅子を探すように動いた。
「大丈夫です、すぐに済むと思います」
「そうか」
ならいい、とばかりに講師は手を卓の上に戻す。席にかけたまま、講師はリシアを見据えた。
「用件は」
問いと同時に鞄から手紙を取り出す。講師が訝しげに目を細めたのを見て、慌てて告げる。
「以前討伐した遺物の炉を、碩学院に買い取ってもらいました」
頭を下げて、手紙を差し出す。講師の反応はわからない。ただ、視界の隅で手紙が手から離れていった。
「……」
紙の擦れ合う音だけが響く。ゆっくりと頭を上げると、講師は一際厳しい表情で紙面に目を通していた。
「確かに、遺物を相手取ったとは言っていたが」
独り言のように呟く。封蝋を確認してやっと、書類もリシアの話も真実だと信じることにしたのだろうか。手紙を置いて、リシアに向き直る。
「何処で遭遇した」
「最近発見された湖の小迷宮です」
「戦闘人員は」
「私と、普通科の同行者です。それとシラー先輩やデーナ先輩も一時は」
「その二人が一時、か。とどめを刺したのは」
「私です。でも動きを封じてくれたのはアキラで」
口籠る。アキラの名を出すのはこれが初めてだろうか。すかさず講師の様子を窺うと、特に意にも介さず質問を続けた。
「どんな遺物だったか覚えているか」
「多脚型だと他の冒険者が言っていました。水を撃ち出して攻撃してきたんです」
「多脚型は機動性が高い。手間取ったはずだ」
「同行者が隙を見て眼のような部分を壊してくれました。その後は動きが大振りになったようで……暴走とも言いますけど……」
「それでも仕留めることが出来たか。碩学院が引き取るほどなら炉の状態も良かったのだろう。あの小迷宮の規模で多脚型が出て来るとは思わなかったが、そうか」
そうか。
自分自身に言い含めるように、講師は呟く。そうしてもう一度手紙を読み始めた。
再び居心地の悪い沈黙が訪れる。ちらりと講師を見ると、先程の厳しい顔から一転して、何か思い耽るような表情を浮かべていた。
紙を折りたたむ音が響く。
「……少し説明が必要になる。この手紙を一日借りても」
「は、はい」
説明という言葉に身を竦ませながら頷く。誰に説明をするのだろうか。
「それから、同封してある小切手というのは」
「家で保管しています。よければ班の活動費にあてようかと」
「どう使うかは私の預かり知るところではない」
そう告げた後、手紙を鍵付きの引き出しにしまう。しっかりとリシアの目の前で鍵をかけて見せ、講師は居住まいを正した。
「……」
息をつく。何事か言いたげな気配を嗅ぎ取って、リシアもまた背筋を伸ばす。しかし怒声も罵倒も浴びせることなく、講師は目を伏せた。
「少し額が大きいから説明に時間がかかるだろうが、その分、評価も遅れる。構わないか」
構わないか、と聞かれてもリシアにはどうすることも出来ない。悪い方向に転がらないことだけを祈って頷く。
「他には」
そう告げる講師の顔を思わず見つめる。すんなりと、本題が終わってしまった。
「い、いえ」
「そうか。気をつけて帰りなさい」
報告書を手に取り講師は自身の作業を始める。少し間を置いて、リシアは立ち上がり頭を下げる。
「ありがとうございます……?」
ゆっくりと立ち去る。その間、講師は特に目立った反応を見せることはなかった。講師室に入る前の想像とは随分と違う反応に、内心面食らう。
安堵するべきなのだろうか。
釈然としないまま、リシアは講師室を後にした。




