小さな別れ(3)
「世話になった」
店主の奢りを待つ間、赤子の母はハロに礼を告げる。何でもないような顔でハルピュイアは嘯いた。
「まあ、お金は貰ってるし」
「代表にもよろしく言ってくれ」
「ん」
頷くハロの視線が、どこか複雑げに泳ぐ。昨日のことが尾を引いているのは向こうも同じようだった。むしろ当事者の分、根深いのだろう。
「少し気難し屋なところがあるんだが、大丈夫だったか?」
「そりゃあもう大変だったよ。仕事終わった後だから言うけどさ」
「やっぱり」
母親は引き攣れた口端を引き上げる。腕の中の我が子を見下ろし、おどけるように囁いた。
「いっぱい困らせたかい?」
赤子の表情は窺えなかったが、何か反応するように腕を伸ばした。先程のぎこちない笑顔から一転して、ごく柔らかく母親は微笑む。
穏やかな光景を目の当たりにして、リシアはそわそわとしてしまう。母性というものにはここ最近縁が無かった。
「ほら、肉だ」
簾が巻き上がり、塊肉の煮込みが現れる。歓心するような声と共に目を輝かせる母親の前で、もう一皿追加される。
「こっちは裏漉しした野菜」
「チビにはこっちだな」
匙を取り、漉した野菜を少し掬う。赤子の口元に近づけるとお包みが身じろいだ。
「喜んでる」
そうして、自身の食事に取り掛かった。
一連の行動をぼんやりと眺めているリシアに、簾の向こうから声がかけられる。
「女学生達も食事か?」
「あっ」
次の予定を思い出して、慌てて居住まいを正す。
「その、今日は食事というより」
「この後迷宮に行くんです」
アキラが答える。ほお、と相槌が返ってきた。
「多めに作っておいて良かったな」
「え」
「弁当」
目を丸くするリシアの前に、竹皮の包みが二つ現れる。思ってもなかった展開に戸惑いつつ、礼を告げる。
「あ、ありがとうございます」
「半分、ケインからだ」
続いた言葉に身構える。
「……どういうことですか」
「昨日は大変だっただろう。次に来る機会があったら奢ってやってくれと言われたんだ。弁当なのは、本当に偶々だ」
ハルピュイアが何事か呟いたような気がした。ほんの少し様子を伺った後、包みを受け取る。
ケインの「配慮」に複雑な思いを抱きながら弁当を眺める。
「いただきます」
隣のアキラがそう告げて、立ち返る。もう一度簾に向かって頭を下げて、鞄に弁当を詰めた。
「これから仕事はどうするんだ」
「ひとまずは客馬車の警護だ。私みたいな奴が組合を作っていて、子供も預けられる」
「ジオードならそういう所もあるだろうな」
母親とバサルトは知らぬ仲ではないのか、世間話に興じる。親子はこの街を出てジオードに向かうようだ。
「こんなに早く、迷宮から離れるとは思わなかったけど」
ほんの少し寂しげに、しかし確かに安堵するように母親は呟いた。
冒険者の一つの終着点を目にして、リシアはただ黙する。
バサルトが席を立った。
「最後に診てやろうか」
「お、ありがとう」
禿頭が赤子を覗き込む。頬に手を触れ下瞼を僅かに引き下げたり、脈を測るように胸に手を置く。全ての動作が、真摯な表情で行われた。
不満げに赤子が声を上げる。
「おお、すまんすまん。これで終わりだ」
鰓の色を確かめ、冒険者は離れる。
「健康優良」
いつか聞いた言葉とともにバサルトは愛想良く笑った。
途端、本格的に泣き声が上がる。
「元気なことだ」
「よしよし」
苦笑いを浮かべて母親は赤子の背をさする。ハロのあやしやリシアの子守唄よりも、ずっと早く赤子は静かになった。
「……そろそろ、行こっか」
同輩に声をかける。当初の目的を思い出したように、アキラは背筋を伸ばした。
「君らは迷宮か。気をつけるんだよ」
席を立った女学生二人を母親は見上げる。胸に顔を埋めていた赤ん坊が、何かに気が付いたのか辺りを見回した。
ぱちりと目が合う。
よく見えているわけではないと、代表は言っていた。しかし赤ん坊は確かにリシアを見て、語りかけた。
涎で光る唇から喃語がとめどもなく溢れる。
「さよならって」
意地悪く笑うわけでもなく、平然とした顔でハロが呟く。てきとうな事を、とは思わなかった。
おずおずと手を伸ばして柔らかな掌をつまむ。
ほんの少しだけ力をかけて、握り返してくれた。
「う……」
言葉にならない声が漏れる。途端、赤子はリシアの手を放り出すように腕を振った。
「今度は手を振ってる」
母親は我が子の手を取り、ゆっくりと左右に動かした。
「ふふ。お互いに見送ろうか」
その言葉に、リシアは破顔する。
驚かさないように小さく手を振り、小さく囁く。
「じゃあね。お二人とも、お元気で」
迷宮を出る頃には、もう親子はエラキスを離れているのだろう。どこか名残惜しい思いで、リシアは扉を開けた。
続くアキラも立ち止まり、赤子に人差し指を伸ばす。リシアと同様に指を掴まれ、赤ジャージの少女は頬を染めた。ゆっくりと指を引き抜いた後、親子に頭を下げる。
自由になった腕を、再び赤子は振る。動く赤子を抱え直して、母親は二人に向き直った。
「チビに良くしてくれて、ありがとう。それから、いってらっしゃい……元気に戻ってくれますように」
そう告げて、親子は再びエラキスでの最後の食事に戻った。




