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小さな別れ(2)

 集合住宅の階段前でアキラを待つ。軽快に階段を昇る音を聞きながら、目の前の水路を眺めた。濁った水の中で時折魚が跳ねる。この水の味を、いつかのオークから聞いた時のことを思い出した。今頃何処かの海洋を次の交易場所に向けて泳いでいるだろう。あるいは、当初の目的地にまだ辿り着いてもいないのかもしれない。


 元気だろうか。


 水面が水路の迷宮や小迷宮の地底湖の風景と重なる。反射する光と底冷えするような幻視に目が眩みそうになって、顔を背けた。


 背けた先に、老婦人がいた。


「こんにちは」


 驚きのあまり言葉も出ない。くしゃりと微笑み挨拶をする老婦人に、無言のまま会釈を返した。


 これは、失礼だ。


 そう思って必死に上擦った声を出す。取り敢えず、遅ればせながら挨拶をした。


「こ、こんにちは」

「新しい店子さん?学生さんなのねえ」


 どこか掴みどころのない声音に、どう返答をするか迷ってしまう。


 ここの住民だろうか。「店子」と言うからには、もしや大家なのか。これ以上粗相をしないよう、リシアは笑顔を作る。


「その、ここに友達が住んでいて、待ってるんです」

「あらぁ」

「アキラって子……アキラさんです。二階のカルセドニーさん」

「アキラサン?」


 暫し老婦人は黙する。小首を傾げて、


「アキラちゃんは、まだ六つじゃないかしら」


 返す言葉を失ってしまう。困り顔の老婦人は、何か納得したように頷いた。


「もしかして、遊んでくれているのかしら。ありがとう」


 どうしよう。


 リシアはたじろぐ。合わせるべきか迷っていると、上階で戸を閉め駆け降りてくる音が響いた。思わず階段の方へ、助けを求めるように目を向けてしまう。


「お待たせ」


 鋤を片手に、赤いジャージの少女はリシアに声をかける。次いで友人と相対する老婦人を見つめ、少し驚いたように眉を跳ね上げた。


「こんにちは、ヘスさん。お散歩ですか」


 アキラの挨拶に、老婦人は少女のような仕草で微笑む。


「今日は良いお天気だったから。ふふ、疲れちゃった」

「もう帰るんですか」

「ええ」

「戸締り、気をつけてください」

「ありがとうシノブちゃん。シノブちゃんも、お家の戸締りは気をつけてね。私もみんなも居るけど、アキラちゃんが心配だから……」

「ありがとうございます、気遣ってもらって」


 会釈を交わして、老婦人は集合住宅の一室へ入る。アキラの言葉通り、きっちりと施錠をする音が聞こえた。


「行こっか」


 扉を暫く見つめた後、何事もなかったようにアキラは振り返る。一先ず頷いて浮蓮亭へと向かう道を連れ立って行く。


 頃合いを見て、恐る恐る聞いてみた。


「あの、さっきのご婦人は」

「ん、ヘスさん?大家さんだよ」

「やっぱりそうなんだ」


 それから少しの間アキラは言葉を切って、ぽつりと呟いた。


「……ここ最近、おばちゃんと私が逆だけど、合わせてる」


 案の定と言うべきか。また会う機会があった時のために、忘れないようにする。


「混乱させちゃうのも良くないかなと思って」

「確かに。不安にはさせたくないね」


 そんな会話を交わしながら、異国通りの裏路地に入る。いつもよりも何処かひっそりとした雰囲気の中、浮蓮亭の戸の前に立った。


「こんにちは」


 小さく声をかけて把手を引く。


 目の前に、赤ん坊の尻があった。


「ん」


 赤ん坊を抱えたドレイクの女性がこちらを見下ろす。耳に向かって切れ上がるように引き攣れた唇の端に目が吸い寄せられた。


「ああ悪いね。ここの……客かい?」

「常連だ」


 場違いな女学生二人に道を譲る女性に、簾の向こうから声がかかる。


「もう行くのか」

「いや、まだ時間はある」

「奢ってやろう。子供も食べられるものを用意する」

「有り難いね」


 応酬の合間に頭を下げて、店の奥に進む。最奥の席には、既に先客がいた。


「おお、嬢ちゃん達」


 杯を掲げ、回収屋は酒で赤く染まった頰を緩ませる。まだ日も高いが、既に出来上がっているようだ。


「こんにちはバサルトさん」

「はは、まだそんな時間だったか」


 笑い声まじりにそう呟いて杯を置く。空いた手で賽の目に切った漬物を楊枝で突き刺し、口に放り込んだ。


「見送りに来たのか?」

「ま、まあ……」


 すっかり見透かされていたらしい。当然のように卓に出された冷水の杯の前に腰掛ける。


「こんなに大勢、チビの面倒を見てくれていたのか」


 扉近くの椅子に座り、女性は微笑む。


「ありがとう」


 途端、リシアは目が覚めるような思いがした。


 身につけた衣服も、腰に帯びた使い込んだ鉈も、彼女の職業を雄弁に語っている。それが先入観と共に思考を阻んでいたのか、赤子と女性の関係性を理解するのに随分と時間がかかってしまった。


 母親なんだ。


「その子は子守唄担当」


 隅の席で不機嫌そうな声があがる。椅子の背に体を預け、疲れ果てた様子のハロと目があった。


「子守唄!私のじゃあ全然寝てくれないのに」

「練習が必要ということだな」


 母親とバサルトが豪快に笑う。ともすればこれまでよりも騒がしい店内だが、赤子は母親の胸元で機嫌良く天井を見上げている。


 安心しきっているのだろう。


 自然にリシアも口元が緩む。

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