かたや閑談(2)
「天使ね」
食事にありついて少し機嫌のいい赤ん坊の面倒を見ながら、ハルピュイアは呟く。
「想像力が逞しいというか」
「私達が棲まうのは、天ではなく海ですけどね。天使というのは、空にいるのでしょう?」
御使の淑女が杯を差し出す。波打つ袖口は、それ自体が体の一部なのだろう。
「あの、水のお代わりを……」
おずおずと頼む淑女に代わって、杯を受け取ったリシアは簾の前に置く。
「わかった」
店主の返答とほぼ同時に素焼きの水差しが出てくる。杯に注ごうとして、少し考え込んだ。
「まあ、そんなにいっぱい良いんですか?」
予想通り、淑女は喜ぶ。水差しをそのまま渡すと、大事そうに受け取った。
「それで、えっと……」
首を傾げられ、リシアは言葉に詰まる。組合員ではないが長く共にいるという彼女に聞きたいことはたくさんある。黙する間にいくらか言葉を整理して、一つ質問をした。
「何故、ケインさんを探していたんですか」
ある意味巻き込まれた側としては聞いておきたい。例え首を突っ込むことになっても。
リシアの問いに淑女は言葉を選ぶように答え始める。
「詳しくは知らないのですが、彼女から夜干舎という名前を取り返したいとウゴウさんは仰っていました」
「ウゴウ、さん」
「ええ。尻尾の大きなセリアンスロープさんです」
名前と外見を紐づけたのち、もう一つの夜干舎の代表であるウゴウの剣幕を思い返す。確かにそんなことを言っていた。
穏やかではない。
赤子を抱えるハロも、鋭い目つきでこちらを注視している。
「屋号を取り返すか」
簾の向こうの店主も、どこか声が重々しい。
「ケインはそういう奴には見えなかったが……」
「僕とライサンダーにも、そんな話は全然してなかったよ」
憮然とした様子でハロは呟く。
「ただ、昔の知り合いだからって」
ハルピュイアの不穏な雰囲気を感じ取ったのか、赤子はぐずり始める。
組合員にも詳しい事情は話していないのか。驚くリシアの隣で、アキラが口を開いた。
「どちらも同じ屋号を名乗るのって、どんな時?」
考え込む。
「名のある組合を騙るとか、方向性の違いで分裂した時とか……もちろん、もっと穏便な理由もあると思うけど」
「大抵混乱の元になるな、その手の話は」
店主の言葉に頷く。
騙りとは思いたくない。それはリシアだけではなく、何も知らされずにいたハロとライサンダーも同様だろう。
では分裂だろうか。そうなると元はケインもウゴウも同じ組合にいたことになる。思い返せば、ケインとあのフェアリーは知らぬ仲ではないようだった。寧ろ、険悪なのはセリアンスロープ同士だけのようにも思える。
「本家と元祖」
ぽつりとアキラが呟いた言葉にどう返せば良いのか思いつかず、水を飲む。
「暖簾分けなら尚の事ややこしいぞ」
簾の隙間から献立表を差し出しつつ、店主は告げた。
「まず互いに退きはしないだろう」
そうして、何ともなさげに注文を催促した。
「腹減ってないか」
「……ひと段落してからでいい?いつになるかはわかんないけどさ」
「お料理ですか?わあ、色々あるんですねえ」
ひらひらと手を伸ばし淑女は献立表を取る。目に当たる部分かはわからないが、日除けの模様が収縮するように蠢いた。
「君達も何か食べるのか。光で育つと聞いたが」
店主の問いに淑女は笑うように口元を隠した。
「よく具材を煮溶かした汁物を時折嗜みます」
随分と小食なようだ。興味深そうに紙を何度も裏返す淑女を横目に、姿勢を正す。
ハロと同様、リシアも今は食事をする気分ではない。アキラもまた、「話し合い」が気にかかるのか扉をじっと見つめていた。
耳を澄ませても、扉一枚隔てた通路の様子はまるでわからない。
「……進展なしか」
「へ?」
唐突な店主の言葉に反応するリシアとほぼ同時に、ハロが真顔で側頭部を押さえる。
「あ……」
僅かに目を開いた後、見る見るうちに不機嫌な表情に変わっていく。
ハロの様子を窺い、気がつく。
扉の外の会話を聞き取れないはずはないのだ。
自身も耳を軽く覆う。
いつの間に。
「ウゴウさん、怒ってますね」
まやかしから逃れられているのであろう淑女の言葉に、内心冷静ではいられなくなる。ついさっき荒事があったばかりなのに。
「いつ帰れるかな」
つい愚痴をこぼす。
途端、勢いよく扉が開け放たれた。
太い尾を逆毛で膨らませたセリアンスロープが、足を踏み入れる。体が竦んでしまったリシアの隣で、アキラが庇うように上体を動かした。
「店主」
食い入るようにセリアンスロープは簾に顔を近づけた。一瞬、厨房の中から背筋が冷えるような気配が迸る。
微かに金属の擦れるような音が響いた。
「……どうした。ついでに飯でも」
「いや、今日はお暇します。随分と迷惑をかけてしまいました」
覆面から覗く目が店内を素早く見渡す。一瞬女学生二人を捉え、目礼をしたような気がした。
「またの機会に」
「客はいつでも歓迎する」
店主とのやり取りの後、セリアンスロープは簾から離れる。背後の淑女に一声かけ、路地に出た。
「あら、もう帰ってしまうのですか」
名残惜しげに淑女は重々しく這いずる。ちらりと後ろを振り返り、袖のような手を振った。
「さようなら。またお話ししましょうね」
「は、はい」
「小さなドレイクさんも、さようなら」
淑女の声に反応したのか、折よく赤子は喃語を発した。
「まあ、まあ!」
喜ぶ淑女の背後から、ケインの顔が覗く。
赤銅色の目と視線が交わった。
「すまない女学生、足止めしてしまって」
そう苦笑いする夜干舎代表の振る舞いに、動揺や不満はまるで感じられない。
それがどうにも不気味で、リシアは身構えた。




