幻影
「ごちそうさま」
空になった磁器と陶貨が巻き上がった簾の隙間から消えていくのを見届けて、リシアは席を立った。立てかけていたウィンドミルを取り、腰に佩く。
「友人に似てきたな」
店主の言葉に目を丸くする。食べっぷりの事ではないだろう。似てきた箇所を聞こうにも、水を流す作業音に口籠る。邪魔をしては悪い。
「帰っちゃうの?」
甘ったるくハロが呟く。碌でも無いことを言い出しそうな気がして身構える。
「子守歌また歌ってあげてよ」
「今は寝てるし……」
「ここに泊まれば?」
半ば予想通りの言葉に溜息をつく。赤子のことは気になるが、流石に一晩付きっきりでいる理由もない。
「貴方が歌ってあげればいいじゃない」
「えー」
もっとも、ハルピュイアの方も本気で引き止めるつもりはさらさら無いのだろう。水を飲み、籠の中を一瞥する。
「このまんま静かに寝ててほしいな」
「そうはいかないのが子供よ」
蒸留酒を舐めるように呑みながらバサルトは笑った。酒のあてにか、日替わりの皿には肉の細切れが残っている。
「覚悟するんだな」
「なんか経験あるような口ぶり」
ハロの言葉に、バサルトは特に返答はしなかった。籠の子供を眺め、皿の肉を一切れ摘む。
その様子に、リシアは自身の父に近しいものを感じた。彼の身の上は知らないが、ハロの言う通り子供の扱いには慣れているのだろう。
「それじゃあ、また今度」
「おう」
店主の返事の後に、バサルトは小さく杯を掲げる。ちらりとハロを一瞥すると、向こうも同様にこちらを見つめていた。
「オトモダチはいないけど、大丈夫?」
「ええ、まだ人通りも多いし」
「ふうん。まあ気をつけてね」
生やさしい。リシアが怪訝な顔をしていると、店主が呆れたように口を出した。
「もう少し素直に言えないのか」
「何を」
「労いだ」
「点心代の半額なんでしょ」
二人のやり取りで合点がいく。子守歌の礼か。
「ごちそうさま」
改めて告げると、ハルピュイアは憤慨するでもなく頬杖をついた。
浮蓮亭を後にする。駅前の広場には、もう生徒達はいないのだろう。星の瞬き始めた空を眺め、ゆっくりと異国通りの出口に向かう。
どこまでも続く「異国通り」を、虚ろげにリシアは歩く。何かに隔たれたように喧騒が遠ざかり、ただ自身の靴音だけが心地よく響いた。
その靴音に、微かに金属音が被る。
帳が降りるように、影が落ちた。
「夜分に失礼」
立ち止まる。金属音にも低い声にも、聞き覚えがあった。
振り向く前に、肩口から声の主が回り込む。尻尾の先が手の甲に触れた。
錫杖を携え異国の装束を纏った姿は、以前迷宮で見えた時とまるで変わらなかった。
要件を聞こうとして、出てきた言葉は当たり障りのない挨拶だった。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。覚えているでしょうか。以前……」
「カルセドニー教授を護衛していた方、ですよね」
覆面の男は頷いた。
「先日はどうも」
「こちらこそ!ありがとうございました」
頭を下げる。ネズミの件に関しては、感謝してもしきれない。男は困ったようにくぐもった忍び笑いを漏らした。
「いえ、構いません。迷宮では助け合うことが肝心ですから」
一歩、男は距離を詰める。
「ところで、今お時間は」
「え、今」
「はい。少しばかりお聞きしたいことがございまして」
覆面が揺れる。
「夜干舎のことを、教えてください」
訝しげに眉を顰め、リシアは僅かに身を引く。その姿を見て男は先程と同じ忍び笑いをした。
「ご存知のようですね」
なんと答えるべきか。口をつぐみ、男の真意を考察する。同業者同士の探り合いなら、こんな迷宮科の一女生徒に探りを入れる必要もないだろう。
つまり、まるで見当がつかない。
「……何を聞きたいんですか。私なんかに」
腹を決めて尋ねる。男の足元で尻尾がゆっくりと揺れた。
「警戒するのも当然でしょう。まあ、お掛けください」
仄かな燈の下、男の手に示されるままに椅子に腰掛ける。見上げた覆面の隙間から覗いた目は、よく知るセリアンスロープの者とは違って見えた。
「貴女の知る夜干舎の代表と構成を知りたい。それだけですよ」
貴女の知る夜干舎。その言葉に小さな違和感を、そしてそれ以上に形容し難い何か大きな違和感を覚えて、リシアは身動ぐ。
「知って、どうするのですか」
少女の問いに男の目が細まる。
「実は、我々も夜干舎なのですよ」
再度、リシアは眉を顰める。
「貴女の知る夜干舎なる組合が、何の意図を持ってその屋号を名乗っているのか。それが我々も気掛かりなのです」
些か困ったような声音で男は囁く。その姿が、リシアの胸の内に不信を滲ませる。
「……それは、私も気掛かりです」
「そうでしょう」
「同じ質問を、貴方に返しても」
気配が変わった。覆面越しの笑顔が消えたのを感じ取って、リシアは体を強張らせる。
「貴女からすれば、我々の方が『夜干舎を騙る組合』なのですね」
暫しの沈黙の後、男は呟く。頷くこともなく動向を見守る。
その様に気付いたのか、再び男の目が細まった。
「思ったよりも、用心深い」
音もなくセリアンスロープは数歩退く。
「導入は楽だったんだがな」
錫杖を打ち鳴らす。
頭のどこかが痺れるような音を聞いて、小さく息を呑んだ。
途端、尻に固いものが当たる。
「え?」
薄暗い路地の中、木箱に腰掛けたまま少女は唖然とする。
慌てて立ち上がり、周囲を見渡す。路地の先にはいつもと同じ異国通りの喧騒があった。
先程まで目の前にいたセリアンスロープの姿は、どこにも無い。
路地を駆け出る。往来の中から、彼の姿は見つけられそうにも無かった。
暫しリシアは立ち尽くす。
やられた。
そんな言葉が脳裏をよぎった。




