子守
地上に出て風に当たっても、フォリエの調子は戻らないようだった。青ざめた顔を見て、リシアは帰りの道中に毟ったホラハッカを渡す。
「つかえが取れるかも」
「ありがとう」
ハッカの葉を小さく千切り、手巾に包んで口元に当てる。微かに息を吐いて、女学生は落ち着きを取り戻した。
「水は」
「貰う」
フォリエは班員から水筒を受け取る。班員同士で目配せをした後、男子生徒が口を開いた。
「送るよ」
「そんな。迷惑はかけられない」
「足元も覚束ない様子だったじゃないか。こんな時は頼ってくれよ」
班長の言葉に女学生は気落ちするように目を伏せた。ゆっくりと頷く。班長はフォリエの肩口で手を泳がせて、軽く叩いた。
「そういうわけだから、先に帰るよ」
「お疲れ。フォリエもお大事に」
「気をつけて、ゆっくり休んで」
住宅街へと歩いていく二人を見送る。一人残った班員と目を合わせ、気まずげに応酬を交わした。
「……大丈夫かな」
「うーん。最近体調悪いみたい。念のため、暫く課外は控えてもらおっかな」
班員は口を尖らせる。
「私も早く帰って休も。それじゃあ、また学苑でね」
淡々と別れを告げ、少女は手を振る。一拍遅れてリシアが挨拶を返した時には、既に後ろ姿が遠ざかっていくところだった。
喧騒と灯火の揺らぎの中にリシアは取り残される。
腹の虫が、小さく意思表示をし始めた。
屋台で軽食でも、と制服通りへ一歩踏み出して、踵を返す。
こんな時こそ、テンシンだろう。
異国通りへ向かい、細い路地に入る。煉瓦に反響する足音に混じって、泣き声が聞こえた。立ち止まって耳を澄ませる。
信じ難い事に、声は目的地から聞こえていた。
重厚な扉を静かに開ける。
「えっと、こんばんは……」
「んあー!もうそろそろ泣き止んでくれないかなー!」
悲鳴を上げて、ハルピュイアが卓に手を投げ出した。肩を竦ませ入店する。
「いらっしゃい」
簾の向こうからかけられた嗄れ声にも、疲れが滲んでいた。酷い顔のハルピュイアの隣を通り、卓を挟んで向かいの椅子に乗った籠を覗き込む。
真っ赤な外鰓の生えた赤子が喚いていた。
「この子は?」
ハルピュイアに尋ねると、鋭い眼光を向けられた。二の句が告げなくなったリシアに、店主が代わりに答える。
「近所の子を預かったんだ。母親が数日ジオードに出向く必要があるとかで、依頼を貼っていたんだが」
「何で二つ返事で請負っちゃったのかなあ」
椅子の背もたれに身を任せ、ハロは天を仰ぐ。店番ついでぐらいの気持ちで預かったのだろう。
「子守は得意なんだろう?」
「もうちょっと大きい子だと思ったの」
愚痴を言う間にも、泣き声は大きくなっていく。慌ててリシアは抱き上げた。
「世話のことはよくわからないけど、おしめは代えた?」
「臭わないから代えてない」
「ご飯は」
「途中」
簾の前に置いてある小皿をハロは指差す。粥のようなものが残っていた。
「そんなんじゃ口にも捻じ込めないし」
「それは流石に可哀想……」
大きなお尻を支えて、背中を軽く叩く。ゆっくりと手の動きに合わせて体を揺らすと、一瞬泣き声を引っ込めた。
お、と一同声を出す。
しかしすぐに赤子は元の勢いで泣き始めた。
今にも文句を言い出しそうなハルピュイアを睨みつけ、リシアは息を吐く。
子守歌を、口ずさんだ。
恐らくエラキスのどの家庭でも歌われている旋律に、赤子も聞き覚えがあったのだろう。鰓を微かに下垂させ、声を潜める。三番まで歌ったところで、不可思議な喃語を最後に赤子は寝息を立てた。
「……寝ちゃった」
まだ食事も途中だが、このまま休ませたほうが良いのだろうか。ハルピュイアに判断を求めようと振り向くと、何やら意外そうな表情でリシアを見つめていた。
「歌、上手いね」
かけられた言葉に今度はリシアが面食らってしまう。ごくごく普通の褒め言葉が出てくるとは思わなかったからだ。
「あ、ありがとう……?」
赤子を籠に寝かせながら答える。小さな手を包む不格好な手袋を整え、柔らかな綿紗をかけた。
「助かった」
簾を巻き上げ、店主は杯を置く。告げられた言葉はどこか晴々とした声音だった。
「礼だ、今日の注文は半額にしよう」
「えっ、それはちょっと申し訳ないと」
「いいんだ。良いものも聴けたからな」
杯の置かれた席に着く。少し悩んで、言葉に甘えることにした。
「太っ腹だね」
口角に意地の悪さを滲ませて、ハロは囁いた。
「もしかして半額分は僕に払わせる気?」
「考えておこうか」
「ちょっとお」
「補填云々は冗談だが、女学生のお陰で、落ち着いたのは事実だろう」
ハロは頬杖をつく。不満げに目を逸らし、「そうかもね」と小さく呟いた。
「さて、今日は何にする」
店主はリシアに尋ねる。勿論、いつも通り軽食だ。
「甘いテンシンって、ある?」
「ああ。それなら、今日は是非勧めたいものがある」
そう言われると、気になってしまう。
「じゃあ、オススメを」
「わかった」
赤子を気にしてか、いつもより物音を抑えた店内でリシアは料理を待つ。
簾の隙間から、薄く蒸気が昇った。




