迷宮へ行こう
午前最後の授業が終わる。ある者は連れ合いと談笑しながら、ある者は腹の虫を喚かせながら教室を出て行く。
「課題、出来るだけやってくるんだぞ」
生徒達の背に向かってそう呼びかける冒険者上がりの講師に、リシアはいつものようにノートを差し出す。隻眼の講師は一瞬呆れたような顔をしてノートを受け取った。
「お疲れ、リシア…今日は眠そうだったな」
「い、いえ。そんな事ありません」
昨日の放課後の出来事が頭から離れず、昨晩は十分に睡眠が取れなかったリシアである。午前中の授業は激しい睡魔との戦いであった。
「どれ、目を通そう。毎回言ってるがな、あまり加点には期待するんじゃないぞ?」
「わかってます」
「何処かの班に入れてもらえないのか?」
「…」
押し黙るリシアに、講師もそれ以上は言及しなかった。
「綺麗なノートだ」
「ありがとうございます」
「…一人で迷宮に潜ろうとか、考えていないだろうな」
ノートをめくる講師の声調が落ちる。思わず背筋を伸ばし、リシアは必死で否定する。
「いいえ、まさか。個人の迷宮入りは認めないって学則で決まってるじゃないですか」
「ならいい…ほら、返そう」
最後のページの隅にサインを書き入れ、講師はリシアにノートを返した。帳簿にも何事か書き入れた後、席を立つ。
「早く新しい仲間を見つけなさい。正直このままだと、成績を付けるのも難しい」
「…はい」
「それと最後に一つ。冒険者にも、いやだからこそ協調性は必要だぞ」
そう言い渡して、講師は杖をつきながら教室を出る。残されたリシアは深い溜息を吐いた。協調性がない、と暗に言われたようだった。その事についてはリシア自身、身に染みてわかっている。
今からでも何処かの班に、入れてもらえないか頼み込もうか。昨日のいけ好かない男子生徒、あいつに頭でも下げて…。
無理。
即座に、脳がその案を却下する。勢いのあまり独り言まで呟いてしまった。そしてすぐに陰鬱な気分になる。これが恐らく、「協調性がない」という事なのだろう。自尊心を優先してしまいがちなのだ。
今のままでは卒業どころか進級も危うい。しかしリシアには幼馴染みの他に仲が良い同級生もいない。頼み込める知り合いがいないなら、とにかく班を当たっていくしかないのだろう。きりきりとリシアの胃が痛み出す。
キュウ…
途端、胃は収縮し間抜けな音を立てた。ハッとして、リシアは今が昼休みである事を思い出す。一先ず腹ごしらえをしろと、食欲がリシアを急かす。
学苑では二通りの食事をとる事ができる。一つは弁当。リシアも普段は家の者に拵えてもらった弁当を食している。もう一つは学食だ。苑内の食堂では常時何種類かの献立や軽食を取り揃えてある。値段も学生向けなだけあってそこそこ手軽だ。しかし味の方は、不満点も多い。
生徒の中には昼休みの間に家に戻って食事を取る者もいるようだが、リシアの家は短い休み時間の間に行き来出来る距離にはない。
実は、今日は弁当を持っていない。忘れてきてしまったのだ。よって、選択肢は学食しか残されていない。
『豆の煮込みが一番マシだから、今日もそれにしよう』
何回か学食を使用してきた経験から、今日の昼食を決める。豆と薫製肉の煮込みはそこそこ食べ応えがあって、まあ、美味しい。一緒に付いてくる干果とパンを合わせれば育ち盛りの女子生徒の腹を十分に満たしてくれる。
一先ず班の事は頭の片隅に追いやって、食堂に向かう。腹が減っていては、班に入る時の頼み文句も考えられない。
食堂に立ち入ってすぐ、リシアは弁当を忘れた事を激しく後悔した。
食堂に列ぶ長机の一つを、同じ腕章を付けた一団が占領している。その中に、現在最も顔を合わせたくない人物が混じっている事にリシアは気がついたのだ。
医術専攻の生徒が身につける白い前掛けに、少し波打った金髪。かつての親友は隣に座る探索術専攻らしき女子生徒に微笑みかけ、不意に、此方を向いた。
目は合わなかった。咄嗟にリシアは踵を返し、食堂を出る。脇目も振らず歩き、何事も無かったかのように中庭に向かった。片隅のベンチに座り込み深呼吸をする。
まさか彼女がいるとは思わなかった。数週間前に会ったきりだが、以前よりも朗らかに笑っていた気がする。
幼馴染み…マイカ・グロッシュラーは医術士見習いだ。入学前から才覚を発揮し、学苑始まって以来の天才とまで言われた彼女は、下の上程度の剣技の才しか持たないリシアと共に学苑四十二班に所属していた。しかし入学からほんの一週間で、マイカは四十二班から離脱した。当然だろう。迷宮科の成績優秀者が集う学苑六班に勧誘されたのだから。リシアも同じ状況であったなら…マイカを見捨てたのだろうか。
暗澹とした気分に陥り、リシアは俯く。考えた事もなかった。マイカが、自分を見捨てるなど。
最近緩くなってきた涙腺がまた涙を溢れさせる予感がして、目頭を擦る。
「まーた泣いてるのか、リシア」
頭上から、聞き覚えのある嫌味ったらしい声が聞こえてきた。何故こんなに不運が続くのか。リシアはうんざりとしつつ、顔を上げる。
「なに」
「ん、泣いてるわけじゃあ無かったのか。昼食は食べれたのか?食堂からさっさと出て行ったみたいだけど」
痩せぎすの男子生徒は歯をむき出して笑う。先ほどの挙動不審な姿をよりにもよってこんな奴に見られた事にリシアは絶望を覚える。
「マイカちゃんが居たからだろ?物凄い縁の切られ方したからなあ、なんだっけ」
あなたに合わせるのに、疲れたの。
あの時マイカに言われた言葉をそっくりそのまま、男子生徒は復唱する。リシアの心臓がキュッと縮んだ。
「確かにお荷物だもんな」
「…煩い」
「ろくに剣も振るえない奴を連れて迷宮探索なんて命がいくつあっても足りないよ」
「だから、煩いって」
「何してるの」
リシアを庇うように、赤い後ろ姿が立ちはだかった。無造作に纏め上げた黒髪と学苑指定の赤ジャージ。昨日と全く変わらない姿の少女は自分より幾分か背の低い男子生徒をしばし見つめ、おもむろに口を開いた。
「いじめ?」
「と、突然失礼だな。アンタには関係ないだろ」
男子生徒は赤ジャージを見上げ、黙り込む。赤ジャージはと言えば、口を真一文字に結び無表情のまま男子生徒を見つめていた。その堂々とした背中をリシアは見つめる。
無言の圧力。瞬き一つしない少女に気圧されたのか、男子生徒がたじろぐ。
「なんだよ、こいつ」
そう吐き捨てて男子生徒は足早に立ち去った。ほっと息を吐くのも束の間、赤ジャージがリシアの方に振り向く。夜色の瞳に見下ろされ、リシアもまたたじろいだ。
その瞬間、リシアの腹の虫が鳴き声をあげた。
赤ジャージの眉尻が下り、リシアは顔を瞬時に赤く染める。少し困ったような表情になった赤ジャージは小脇に抱えた紙袋をまさぐる。
リシアの目の前に油紙で包んだパイが差し出された。
「食べる?」
「あ…ありがとう」
妙な虚勢を張る気力もない。パイを受け取りリシアは素直に礼を述べる。油紙を剥いてみると、購買で軽食用に売られている半月型のパイだった。
いつの間にか赤ジャージもベンチに腰掛けていた。紙袋からもう一つパイを出し頬張る。それを見て、リシアの腹の虫が急かすように小さく鳴った。腹の虫に従いリシアもパイに噛り付く。
一口目は塩味の練り粉だけだった。二口目にやっと香辛料で風味付けされた肉そぼろが現れる。塩と香辛料、脂を目一杯ぶち込んだくどい味付けだが空きっ腹には有難い。
「…嫌がらせとかされてるなら、先生に相談した方がいい」
既にパイを平らげた赤ジャージはそう言って、二つ目のパイを紙袋から取り出した。
「あんなの気にするほどじゃない」
余計なお世話、と言おうとしてリシアは言葉とパイを飲み込んだ。流石にそれは失礼が過ぎる。
「迷宮科って、どんな事をしているの」
赤ジャージがパイの油紙を剥きながら質問した。リシアは怪訝な顔をする。まだ名前も知らない女子生徒に、何故そんな質問をされるのだろうか。
「普通科の授業に加えて、迷宮に関する知識や生存術、組合の仕組みなんかを学ぶの。あと、課外の実習とか」
「実習?ほんとに迷宮に潜るんだ」
「当たり前でしょ。迷宮を食い扶持にするのに」
「迷宮の中はどんな感じ?」
リシアを質問攻めにする赤ジャージ。一貫して無表情だが、その目は好奇心で輝いている。
「…迷宮に興味あるの?」
「うん」
やはり無表情のまま赤ジャージは頷く。ふと傍らに眼をやると、購買部の紙袋に隠れて見覚えのある本があった。学苑書庫のラベルが貼られた「迷宮学概論」だ。
「昨日、教科書を見つけた時に興味が湧いて」
「へえ…」
「誰でも潜る事が出来るって聞いて、これで下調べしてる」
「ちょっと。一人で潜るつもり?」
どうも不穏な赤ジャージの発言に、リシアは顔をしかめる。
「一般人一人でも潜れるって書いてあったから」
「迷宮科でもないキミが一人で潜っても誰も文句は言わないだろうけど、最悪死ぬよ」
「死…」
赤ジャージの表情が微かに揺らいだ。少しきつく言い過ぎたかと思いつつ、リシアは止まらない。
「迷宮で死ぬ人の殆どは冒険者として最低の心得も知らず、組合に所属してパーティーを組むことも出来ない一般人なの。聞いた事あるんじゃない?よく無免許の一般人が小遣い稼ぎに迷宮に入って死んでるでしょ」
「確かに、そんな話よく聞く」
今日の朝刊の見出しも「迷宮できのこ取り 六十代女性が死亡」だったはずだ。
「免許持ってる人についていくならともかく、女子生徒が一人で潜るのは危険すぎる!」
「じゃあ、迷宮科の生徒となら大丈夫なのかな。確か迷宮科の生徒は全員免許持ってるって聞いた」
「仮免許なら入ってすぐ貰えるけど…って、もしかして私をアテにしようとしてる?」
「ううん、気になっただけ」
赤ジャージの表情から真偽は窺えない。相変わらずの真顔と向かい合いながらリシアは少し呆れて…閃いた。
食べかけのパイを傍らに起き、上衣の内ポケットから生徒手帳を取り出す。迷宮科の学則に関する章を開き、指を這わせて読みふける。
一、迷宮科の生徒であっても一人で迷宮に立ち入る事を禁ずる。
つまり二人のうち片方が普通科の生徒でも問題は無いわけだ。最もそんな文面がないというだけで本当は駄目なのかもしれないが…。
「ねえ、迷宮に行ってみたいんだよね」
「うん」
「じゃあ私についてくる?」
今のリシアにこの好機をみすみす見逃す理由はない。半ば期待に満ちた目で、リシアは赤ジャージの漆黒の瞳を見つめる。
「…いいの?」
赤ジャージの表情が明るくなった。その顔がハッとするほど可愛らしくて、リシアは面食らう。
「わ、私の課題を手伝ってくれるなら」
「手伝うよ」
「…じゃあ、早速明日行こう!」
思わず、赤ジャージの手を握りしめる。渡りに船だ。こんな形で同行者を見つける事が出来るとは。天に拳を突き上げたくなるのを抑えつつ、リシアは名乗った。
「私、リシア・スフェーン。迷宮科の一年生」
「アキラ・カルセドニー。普通科一年。よろしくリシア」
「こちらこそ」
赤ジャージ…アキラもリシアに続いて名乗る。東方由来の名に、移民に多い姓。迷宮科ではあまり見かけない異国の血を引いた少女は、少しだけ口角を上げて笑った。
「早速予定を決めよう。どこに集まって、何を持っていけばいいのかな」
遥か太古より、人種や民族の違いに関わらず人々の深層意識に根付く普遍的な思想がある。
大地は女性格であるとか。
三は聖なる数であるとか。
そんな共通する思想の一つに、「地下の異界」というものがある。我々ドレイクは地下には異教徒と悪魔が堕ちる地獄があると信じ、フェアリーは矮小化した旧い神々の隠れ里が地下にあると信じている。
地下に広がる空間。かつて人々が死者の国や神の遊び場と呼んだ場所を、現在我々は「迷宮」と呼ぶ。
根のように張り巡らされた通路と、その中途に点在する地上まで続く開けた空間で構成されるそれは、ヒトが住まう地の殆どで見つかっている。その存在は大抵伝承で示唆され、あるいは部族の祭祀の場となっていたものが近年の調査により迷宮の一部と判明した例もある。
現在、俗に大迷宮と呼ばれるのはグラナデンの「世界の根」、パノニアの「蛮洞」、ホウライの「黄泉」など七迷宮が知られている。
〜「週刊迷宮」五月号 コラム「迷宮見聞録」より一部抜粋〜