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清掃(1)

 区切り良く問題を解き終え、数学講師は白墨を仕舞う。


「今日はここまで。忙しいでしょうが、課題は忘れずにこなしてくださいね」


 上品な微笑みを浮かべながら老婦人が告げた途端、鐘が鳴り響く。そそくさと出て行くこともなく教壇の椅子に腰掛けたままの講師の元へ、一人の女生徒が教科書と手帳を手に近付く。何事か問うと、講師はゆっくりと頷いて手帳をなぞった。


 後任の数学講師は評判が良い。普通科で教鞭を取った後退職した彼女を学苑が再び雇ったとのことだが、長年生徒を相手にしていただけあって人当たりも良く、教え方もこなれている。以前より高度な内容も、今はすんなりと頭に入ってくる。


 一方で、前任の講師のその後は寡聞にして知らない。突如として学苑を去った彼について調べる勇気も人脈もリシアには無かった。


 しかし、妙な噂を小耳に挟むことはある。


 今日もまた、同じ教室の生徒が問い掛けてきた。


「少し良いか?」


 恰幅のいい男子生徒が、昼休みで空いた前の席に腰掛ける。


「なにか」


 昼食の入った籐籠を開けながら、努めて無愛想な返事をする。どこか不安げな様子で男子生徒は用件を告げた。


「マイカについて、何か聞いてないか?その、機嫌とか」

「……いいえ、何も」


 そう答えると、あからさまに男子生徒は落胆した。いつの間にか側に立っていた同輩を見上げ、肩を竦める。


「知らないって」

「そりゃそうだろ。てか、あんな噂本当に信じてるのか?」

「確かに、あの地味な先生がマイカとどうにかなるわけないか」


 そんな言葉を交わして二人は去って行く。


 先程の男子生徒は幾分か配慮した問い方だった。講師の一件にマイカが関与していたという噂は、多くの生徒の興味を惹いたらしい。もっと露骨に、幼馴染みと元数学講師の間に何があったのかを聞きに来る生徒もいた。その度に同じ返答をする。かつて同じ班だったという繋がりしか今は持ち得ていないリシアには、真相を知る由もない。


 下衆の勘ぐりだ。


 そう思いつつも、多少の不安はある。あまり認めたくは無いが、ほんの僅か、心配するだけの情は残っているのだ。だからこそ妙な噂が流れているのが腹立たしくもある。


 この頃は少なくなった一人きりの昼食に、執事の作ってくれた弁当を食べる。籐籠の中にはおやつに摘めるように油紙で包んだ菓子がいくつか入っていた。一つだけ食後のおやつに口にして、残りは小物入れに納める。


 午後の野外講義に備えるためだ。


 今日は講師が一年生を率いて、第一通路へ向かう。名目上は講義だが、その実「後始末」だ。


 先日辿り着いた不法投棄場の清掃である。


 第六班の報告によって明らかになった小通路の現況は、学苑としても無視できないものだった。一先ず尻拭いとして、一年生を動員することになったのだ。


 気が沈む。


 別に清掃が嫌なわけではない。迷宮科の連帯責任に不満があるわけでもない。


 ただ彼処での出来事が、事あるごとに脳裏をよぎるのだ。


 あの日救助した女生徒が無事回復したという話は、一切耳に入っては来ていない。おそらく今も療養中なのだろう。ドレイクの回復力を持ってしても、あの傷が癒えるには長い時が必要だ。そしてそれ以上に、暗い迷宮でネズミに生きながら喰われる恐怖は……消えることはないだろう。


 藤籠を抱える手に力が籠る。微かに蔓が軋む音を聞いて我に帰る。


 つまるところ、怖いのだ。


 深呼吸をして恐怖を胸の奥底に押し戻す。希釈された恐怖は緊張感となって、リシアを次の行動へと促した。


 あの恐怖を忘れてはいけない。自分や、同行者のためにも。


 籠手や革帯を点検する。今日は全体行動のため、班を組む必要は無い。今現在のリシアにとっては願ったり叶ったりだった。


 班員はいる。だが彼女は普通科で講義を受けているのだ。教室から連れ出すわけにはいかない。


 結局のところ、一人で迷宮に潜ることは無くなっても、迷宮科では独りだ。第六班もいない教室では殊に。


 身支度を整えて時計を確認する。そろそろ講堂に向かった方が良いだろう。連れ立つ友もなく、一人教室を後にする。


「リシアさん」


 声をかけられる。振り向く間も無く、リシアは女生徒達に包囲された。


「一緒に行きましょう」


 隣に立つ一際華やかな粧いの女生徒が微笑んだ。突然の出来事に血の巡りが悪くなる。


 合わせておこう。


 鈍い脳がそう結論を出した。


「う、うん……?」


 ぎこちなく頷く。女生徒一同、喜色を浮かべた。


「色々お話ししてみたくて」

「シラー先輩と何度かご一緒してるって本当?」

「セレスタイン様のご依頼も受けたとか」


 代わる代わる投げかけられる言葉に気圧される傍ら、納得した。傍目から見れば、リシアはそれなりに「うまくやっている」ように見えるのかもしれない。学苑でも指折りの剣士と迷宮へ向かい、王族の依頼をも受理する。確かに、いずれも嘘ではない。


 リシア一人では何も出来なかった。それはきっと、彼女達もよくわかっている。


 居心地の悪さを覚えながら、リシアは同輩の質問に一つ一つ答えていく。講堂へ向かう足は泥濘にはまったように重く感じた。

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